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President,s Column | エバー代表のコラム

President's Column | エバーグリーンホーム代表・猪狩裕一の思いをお伝えします。

年別アーカイブ:2013年

昆布締めでいい。昆布締めがいい。

2013年12月

「ヒラメの昆布締め」の話です。

あの美味しいヒラメの昆布締め、ですが、実はあれって、元々は昆布で締める必要などなかったということ、ご存知でしょうか?

ヒラメは本来、海底を擦るように泳ぐ魚です。当然、海の底に生える海草や海藻を食べて生きています。なので、良質の天然もののヒラメというのは、わざわざ昆布で締めなくとも、味わいに昆布の芳しい香りがするものなのです。そんな良質の天然もののヒラメの味わいを模すという意味で、昆布締めというのは生まれた発想なのでした。

東京某所にある某寿司屋にて、私は良質の天然もののヒラメをいただく機会がありました。その身は昆布の香りがして何とも言えず絶品。私はそれを昆布締めとばかり思っていたのですが、実はそうではなく、その時に大将に「昆布締めというのは良質の天然もののヒラメのフェイクである」と教わったのです。勉強になりました。ちなみにですが、そんな逸品のヒラメを出す寿司屋ですから、一貫の値段というのは巷の寿司屋とは一ケタ違います。とてもじゃないですが、お金を払ってくれるどなたかとでないといけません 笑。

庶民を絵に描いたような私にとっては、自分で払えるくらいの値段の巷の寿司屋の昆布締めで、充分に満足です。先に申し上げた某寿司屋でないと駄目だ、という、そんな一握りの一流の舌をもつ人間ではありませんから。

さて、日々の私は、茅ヶ崎の庶民的な寿司屋のテーブルで、お勘定に心配する必要もなく、エバーはこれからどうあるべきか?と、自問自答をする日々が続いています。 結論としては、エバーは先に述べた某寿司屋のような所業は決してできない、ということです。ごく少ない職人とスタッフで、選ばれた人だけを招き、選ばれた高価な食材を提供する、そのようなスタイルをとることなど無理なのです。より多くの人に喜んでいただけるような家づくりをしていかなければなりません。中には、良質の天然もののヒラメを注文するお客様がいるかもしれませんが、大半は、私と同様「美味しいのなら昆布締めでいいよ」という方々に喜んでいただくというのが、エバーの道です。

また一つ、別の話をさせていただきます。先日、テレビに或るダンス・パフォーマーが出ていました。彼は押しも押されもしない世界的に一流の技術をもったパフォーマーなのですが、こんな印象的な言葉を残しました。「技術を突き詰めれば突き詰めるほど、人に伝わりにくくなる」彼はパフォーマーとしてダンスの楽しさや魅力を伝えたいのが本望なのに、技は高まるほどにわかりやすい魅力とは遠のいていくという、確たる矛盾を抱えていたのです。

エバーも同じだと思いました。私たちも、一流ホテルで夜ごと一流のダンスパフォーマンスを楽しんでいる人を相手にするわけではありません。ある特定の方々のために至高の技を磨き、その対価として大きな金額をいただくなどというのは、やはりエバーの道ではないのです。

これまでにおいて、エバーは大きく道は誤っていない、と感じています。けれども、そのことに甘んじてはいけない、とも感じています。エバーはしっかりとお客様お一人お一人に寄り添い、個々の希望をしっかりとかなえる、技と心のある精鋭が揃ったいい会社です。そんな魅力を、より多くの人に伝えていかなければ。守ってばかりもいられません。攻める気持ちがあって初めて、守りが生まれるものと感じています。成長著しいエバーという舟に、新しい緊張感と戦略を。言うまでもなく、私の仕事です。

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よし、そろそろ行くか。

2013年11月

世の中は、正解のないものばかりです。正解のないものの固まり、それが世の中です。良心とか、誠実さとはあって然るべきものの、しかし、こうすることが良心である、と言えるものさえ、移り変わってゆくものです。そういう意味で言えば、永遠に「こうあるべき」というものなんて、世の中にはないのです。私たちは、そんな世の中に生きています。

日本人は国民健康保険に加入できます。一方、自由を尊重する国であるアメリカでは、そのような国民皆保険がありません。しかしながら、今、その必要性が論じられています。賛成するアメリカ人も、反対するアメリカ人もいます。賛成派というのは、日本人と同様に、日々の生活に安心が得られることにメリットを感じています。安心して病気やケガができるわけですから。アメリカの医療費というのは高額です。救急車を呼ぶのだって高いお金がかかります。そんなことはもう止めよう、と言っているわけです。
一方、反対派というのは得てしてアメリカという国の国民性、つまり全てにおいて個人は自由であることを重要に感じています。我々は自由の国に生きている、何かあった時の判断だって個々に任せておけばいいのだ、現に我々は今までそれでやってきたじゃないか?という考えです。

どちらがいいのだろう?と考えた時に、私たちは、なんとなく、慣れ親しんだこともあってか、やっぱり国民皆保険の方がいいのだと思います。明日からいきなり救急車を呼ぶのにお金がかかります、なんて言われたたら、困ってしまいますから。「国民皆保険の方が、やっぱり正解だよ」そういう結論になるかもしれません。

ところが、アメリカ人は、日本人に比べて、平均的に健康志向です。一部の不摂生な人は双方にもいるにせよ、ジムに通って体を鍛えたり、食への安全を執拗に考えたり、家庭での薬の常備などは、日本人に比べてアメリカ人の方が、相対的に意識が高いです。どうしてでしょう?答えは簡単です。病気になれば高くつくからです。病気にならないようにするには、一人ひとりが一人ひとりの判断と責任において管理していかなければならないからです。日頃から病気にならないように努力を怠らない、それは国民皆保険ではないアメリカ人の方が意識が高いのです。

予防する意識が高いことはいいことです。しかし、仮に、アメリカが国民皆保険を選択したら、きっとその大切な予防意識は薄れてしまうでしょう。病気になっても今までと違って安く済むのだから、油断するのは当たり前です。すなわち、アメリカ人の体は、国民皆保険を選択したら、今より弱くなるのです。

日本ではこんな笑い噺があります・・・病院の待合室での常連のおばあちゃんたちの会話「あれ、今日はウメさんは来ないのかねえ?」「さて、どっか具合でもわるいんじゃないかい?」日本が国民皆保険の国でなかったら、病院がまだまだ元気そうなお年寄りのサロンと化すことはなかったのでしょうね(笑)。

そう、正解はどちらでもない、ということです。

正解のない世界で、私たちはなるべく正解(のようなもの)を探しながら生きていかなければなりません。

ところで、エバーの代表である私が、いま欲しい正解というものがあります。それは、今後、エバーがどのようなお客様に真から望まれていくのか、それを知ることです。そこから、エバーとしての正しい未来が見えてくるのだと思っています。自問自答の日々は続いています。
しかしですね、悩んだ末の結論というのは、いつもただ一つ「やってみるしかない」・・・うーん、何と単純なことか。でも本当にそのようです。だって、元々正解のない世の中。考えて、考えて、考え疲れて、もう考えることがなくなった頃、「よし、そろそろ行くか!」と一歩を踏み出す、それしかないでしょう。
さあ、今日もそろそろ一歩を踏み出す時間です。間違えたら、責任は取ります。他人のせいにはしませんから、ご安心ください。

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読書家ではない、私の読書法。

2013年10月

「たくさん本を読むほど、賢くなれる。」

これ、皆さんはどうお思いになるでしょうね。「うん、確かにその通り」とお思いの方もいらっしゃるでしょう。しかし、私はあまりそうは思いません。要は、読書の「質」の問題ではないか、と私は思います。

私は、好きな本は何度も読みます。再び読むと、最初に読んだ時とは異なる感想を抱いたりします。3度目に読んでみると、今度は今までは引っかからなかった描写の優れた点や、主人公の微妙な感情の移り変わりや、作者の物語にこめた真意などが初めて理解できたりします。何度も読めば読むほど、その本を深く感じることができるようになります。上っ面の活字だけを追っていた最初の時とは違う感じ方ができている自分を、「まだまだ駄目だな」と反省したり、逆に「ここまで読み解けるようになった」と評価したりします。そのことの繰り返しが、自分という人間を少しずつ成長させているように思えます。

(そういえば、あの安藤忠雄氏は、本の気になった所に赤いラインを引くそうです。そしてしばらくしてから読み返した時に、その赤いラインを引いた所を見て、自分のかつての偏りや未熟さを実感するそうです。そして再度ラインを引く。3度目に読んだ時には、自分の成長の跡がさらに確認できるというわけです。好きな本をそのようにして活用するというのも、素敵だと思います。)

そうではなく、一度読んで、面白くて、「あー面白かった!」と放り投げて、もうその本のことはさっぱり忘れて、次の本に手を伸ばすような性格だったとしたら、私は、今の自分よりもっと未熟な人間だったと思います。「面白かったんだから、もう一度読んだら、もっと面白いはずだ」…これは、欲です。せっかく面白いものを見つけたというのに、その面白さを骨の髄までしゃぶらずに、次の何かを探しに出てしまうなんて、欲のない、つまらない人間がすることのように、思えてしまいます。だから、つまらない人間の観察力というのは、浅い(質が低い)んじゃないか?などと思ってしまいます。

私はスタッフの報告を、よく疑ってかかります。

「あのお客様、なんとおっしゃってた?」

「いいですよ、それで、と電話でおっしゃっていました」

私はそこで、そのお施主様のことをイメージしてみました。…あのお施主様は、満足した時にそういう言葉遣いはしないんじゃないか?むしろ、不満を残している時に、そういう口調になるような…?

後で私の方から当のお客様に確かめてみると、案の定、その言葉の真意は「この際、もうそれでいいや」的なものでした。そう、言葉だけで相手の真意を判断してはいけないのです。ふだんからそのお客様のことを理解しようと観察していれば、言葉だけで簡単に真に受けるようなことはしなくなることができます。うちのスタッフは優秀なのでそういうのはレアなケースなのですが、それでもやはり気をつけなければなりません。

読書も然り、仕事も然り、大切なのは、量よりもむしろ質のように思います。意味のないトレーニングを100時間やることは、そのトレーニングをやらせた人間が悪いです。しかし「その100時間を何の疑問も感じずにやっちゃったアナタも、同じくらい悪いんじゃない?」と私は言います。

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大事な人に、してはならないこと。

2013年9月

大人気のテレビドラマ「半沢直樹」を、私も見ています。ストーリーはあえてここで説明するほどでもないでしょう。実に面白いですね。一部の銀行業界人やマスコミは、あのドラマがドロドロし過ぎていることで、業界に就職する人が減ってしまうのではないか、などと心配しているらしいですよ。それほどに強い影響を与えているドラマです。まあ所詮フィクションではあるのですが、あの主人公の初志貫徹ぶりというか、社会を清く正しくしようとする強固な精神力というかは、あっぱれです。私だったらあそこまで決して戦えませんね。ヨワヨワでしょう、すぐに頭取にチクッちゃうと思います 笑。しかし大方の人間がそうではないかとも思います。誰もがあそこまで強くはなれない。憧れの存在というのは、自分にはできないことを代わりにやってくれる、だから憧れもするし、観ていてつい応援したくなるのだと思います。

それは彼の強い部分ばかりでなく、他人を思いやるという人間性の面からも「自分もこんな人間になれたらいいな」と憧れを抱かせてくれますね。彼はどんなに窮地に立たされても、やみくもに周囲の不安を煽ることはしません。むしろ大変なことほど自分の胸だけにしまっておいたりもします。慌てず冷静であることを信条として。しかし、それはドラマの世界以上に、現実の世界での方が大事であると思うのです。

どんな仕事でもそうですが、私の業界においても、他社、あるいは他者をさげすむことで己の評価を上げようとする者がいます。他人が何かミスでも犯そうものなら騒ぐだけ騒いで、それをきっかけに仕事を奪ってしまおうなどと企む者もいます。内々の小さな話でとどめておくのならまだしも、お客様の前で平気でしていまう人間というのがいます。私はそれを人間性に欠けていると感じます。

たとえば、私がリフォームを請け負うとします。壁をはがした時に、そのお客様の持ち物である家に、ちょっと気になることが見つかったとします。それは明らかな欠陥施工であるとか、ひどい手抜きとかいうわけではありません。そうではなく、ちょっとここだけ雑になってしまった、くらいのものであったとします。その家の耐用年数を左右するわけでもないし、居住性を落としめるようなものでもないし、気が付かなかったところで何も起きない部類のことであったとします。素人さんには見分けがつかない程度の、ほんの少しそこだけ気を抜いてしまったことであったとします。それなのに、してやったりとばかりにお客様の不安を煽る発言をある人間はします。「お客様、こちらのお宅はどこの会社でお建てになられました?○×ホームですか。ああ、やっぱり…いやね、ひどいんですよ、ここ見てくださいよ、こういうことしちゃうんですよ、あの会社は。」なんていうことを平気で言います。お施主様としては、教えられなくてもいいものを教えられたことで、自分の家に対して不安でいっぱいになってしまいます。教えた者は「こういうことをする会社もありますが、わが社はそんなこと決してありません。だからご安心ください。」みたいな狙いだけだったのでしょうが、お施主様はもうご自身の家に対して不安で不安でどうしようもなくなってしまいます。自分の株を上げたいだけで、お施主様の気持ちなどかけらも考えていないから、そういうことができてしまうのです。

「なんて余計なことをする人間なんだろう」私はそういうタイプの人間に対して、そう思います。私だったら、もしもそのくらいの前任者の凡ミスを見つけたら、お施主様にはあえて何も言わずに、その部分はささっと修繕しちゃいます。私の仕事は他社を蹴落とすことでもないし、お施主様に余計な不安を与えることではないからです。よほどの欠陥であるなら指摘してきちんとした手だてを取るように申し出るでしょう。
しかしそうではなく、実に些細とも言える凡ミスであるなら、鬼の首でもとったようにお施主様に告げ口をするようなことは、お施主様を不安がらせるだけで、ほかに何の意味もないのです。黙って直してあげれば、それでいいだけです。それが、お施主様を思う、ということです。

私のこの考え方というのは、特別なことでも何でもありません。どういう関係性であっても、人と人とが信頼し合って生きていく上での、基本だと思っています。要約すればたったひと言でしょう。「大事な人に、必要以上の心配をかけてはいけない。」その点では、半沢直樹と私は、同レベルだと思います。(いや、やっぱり違うかな…)

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出かけよう。言葉を聞こう。

2013年8月

偉人の名言というのがあります。
ロックフェラー曰く「私は災難が起こるたびに、これを良いチャンスに変えようと努力し続けてきた。」
坂本龍馬曰く「世の人は我を何とも言わば言え。我が成す事は我のみぞ知る。」
へミングウエイ曰く「今はないものについて考えるときではない。今あるもので、何ができるかを考えるときである。」
松下幸之助曰く「石の上にも三年という。しかし、三年を一年で習得する努力を怠ってはならない。」
マリリン・モンロー曰く「私は見られていないときは死んでいる。」

素晴らしい言葉ばかりですね。我々に強い何かを知らしめてくれるようです。

ただ、こういう言葉を、単に字づらだけ覚えて心の糧にしても、何の意味もない。

大切なことは、その言葉の背景にあるものを知ることです。「松下幸之助はなぜそのような境地まで辿り着いたのか?」それを自分にたとえて応用しようとする心構えをもつことが大切です。偉人の名言を自分のものにする、とは、自分の立場に置き換えて自分なりの行動を起こすことではないでしょうか。いい言葉だから覚えました、というだけでは何も変わりません。空手の本を読んで強くなったと思い込む人がいます。ビジネスの啓蒙書を読んで金儲けがわかったような気になる人がいます。それと一緒のレベルになるのは、恥ずかしいから止めましょう。偉人の境地をそんなに安っぽくとらえてはバチがあたります。

さまざまな人の言葉を知る、直に聞く、聞きに行く、というのは、とても大切な行いであると最近感じています。日々の仕事に追われていると、どうしても価値観が凝り固まってしまいます。できるだけ機会をみつけて、出かけていこう、そして人の話に耳を傾けよう、と思っています。経営者どうしの横長の集いのようなものは相変わらず苦手なのですが、自分自身やスタッフ達の成長になるような勉強会やコンベンションには、つい敬遠しがちだった自分を改善しようと思っています。

その一つのきっかけになったのは、以前にスタッフと出かけた安藤忠雄さんのコンベンションです。そこでは安藤さんご自身がお話をされたのですが、さすがだなと思わされる反面、日々思うことの根本的な部分というのが、とても自分と近しいことを発見できました。それは特別に個性的な考えではありません。むしろ、現代人としてベーシックに持つべき心の強さのようなものです。
安藤さんは「綺麗事ではいい仕事はできない。」と言います。それは、あくどいことをしろ、という意味ではありません。むしろその逆で「汗臭い努力や、人が好まない交渉事をきちんとやれる人が、いい仕事をする資格がある。」と言っているようなものです。
安藤さんのような優れた人が、きちんとそういうことを正直に伝えてくれることは、私にとっては勇気であるし、スタッフ達にも大きな刺激になったようです。その後すぐに仕事の内容に表わされるほどの、そんな内面の変化があったようです。

とかく私たちは日々の仕事に追われてしまい、自分を高めることを二の次にしてしまいがちです。時には現場を離れて、本を読むことも大事です。芸術に触れることも大事です。そして、それと同じく、多くの人に会い、その人々が発する言葉に耳を傾けることも大事なのですね。

安藤さんの言葉にこのような名言があります。「お金は栄養にならんと、よう分かったんで。」さすが、安藤忠雄さん。同感です。私も、もっと違う栄養が欲しい。

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そのご家族に愛されるだけの傑作。

2013年7月

ファミリーレストランで、心から店員さんに感謝の気持ちを述べているお客さんを、私は見たことがありません。
たとえばこんな風に。
「いやあ今日のランチは実に美味しかったよ。飲み物をすすめてくれるタイミングも抜群だった。本当にありがとう!また来るからね!」

私は見たことがありません。それは、ファミリーレストランがわるいのではありません。ファミリーレストランがそういうサービスをしない場所だからです。ファミリーレストランは、お客様が支払う値段相応のことさえすればいいのであって、お客さんの方もそれ以上のサービスを求めるのはお門違いなわけです。

ファミリーレストランのルールは厳格です。お客様への接客はつねに一定でなければなりません。いただいたオーダーは必ず先着順にテーブルに出さなければなりません。ハンバーグの添え物のインゲンはおそらく同じ本数でなければなりません。そういった厳格なルールが狂ってしまった時、クレームが発生します。
「どうしてこっちにはランチの説明をしてくれないんですか?(怒)」「どうして先に注文した私たちよりあっちのお客さんの食事が先に出されるの?(怒)」「すみません、こっちはインゲンが少ないんですけど?(怒)」

要するに、ファミリーレストランの現場の鉄則は、“ミスをおかさない” “全てのお客様に差をつけない” ということに重点が置かれています。それ以上の感動をファミリーレストランに求めるとしたら、それは客として横柄です。

だから「いやあ今日のランチは実に美味しかったよ!」なんて感動している常連さんがいたとしたら、逆にそれは問題です。今日のお客様と過去のお客様とで、美味しさの面で平等性を欠いたということですから。

ファミリーレストラン、大変だと思いますよ。本当に敬服します。だって、常にミスをおかしてはならないのですから。人間とは不思議なもので、ミスをおかさないように…ミスをおかさないように…と心配し続けていると、ミスを呼び込んでしまいます。心が縮こまってしまうのでしょう。うっかり、インゲンを1本少なく盛ってしまいます。「待ってました!」とクレーマー登場。インゲン1本くらいでねえ(笑)。
けれど、それがファミレスです。

幸いなことに(というのもおかしな表現ですが)エバーはファミレス的家づくりではありません。決まったメニュー表はありません。ご注文はお客様のご要望に応じて、となります。

そんな私たちのモットーとは、ミスを恐れて引き腰にならないことです。ミスを恐れることから入ってしまったら、お客様のご要望を叶える大胆な発想も、かつてない挑戦も、できなくなってしまいます。万人に愛される傑作ではなく、そのご家族に愛されるだけの傑作をつくるので、ファミリーレストランで起こりうる類のクレームなど、気にしたくありません。

それを円滑にするのは、お客様との良き信頼関係。ひとえにそれしかないように感じます。充分に理解し合った上で、エバーを選択していただいと思っています。お任せいただいた上は、必ずご納得のいく仕事をさせていただきます。

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働く人の二極化、その不安…。

2013年6月

私にとっての毎日の就業時間とは、仕事が終わるまで、です。その日の仕事が終わるまで、夜遅くなろうと仕事をします。早く仕事が終わる日は、エバーの定時刻になったら仕事を止めます。私の周りには仕事が好きな人が多いので、そういう「仕事が終わるまでが就業時間」という人が多くいます。

しかしながら、今の世の中はそうは単純化できません。労働は時間単位で算出されるものであったり、労働基準法という法律があったりするので、「仕事が終わるまでが就業時間」という考えを他人に押し付けることはできません。仕事が終わろうが残ろうが定時刻になったら仕事は終わり、という取り決めをしている人もいれば、残業代の出ない残業は決してしないという人もいて、そのどれもが間違いではありません。それに、個人の意志や契約を無視すると、どこかから簡単に「ブラック企業」などと呼ばれてしまいます。恐ろしいです。

ただ言えることは、私の周囲の「仕事が終わるまでが就業時間」感覚の人は、皆、楽しそうに働いているということです。仕事が、人生の大きな生きがいになっているからです。逆に考えると、今までつまらなかった仕事が楽しくなってくると、「仕事が終わるまでが就業時間」人間に変わってゆくような気がします。

では、つまらなかった仕事が、いつ、楽しくなったのか?それは、仕事の面白味がわかった瞬間なんだと思います。コツがつかめた、とか、相手が喜んでくれた、とか、そういったことです。

私が子供の頃は、町は、仕事をしている人でいっぱいでした。駅には切符を切る人が改札にいました。ジュースはお店屋さんでおばちゃんから買いました。大人はたばこ屋さんでたばこを買っていました。工事現場にはもっとたくさんの人がいたように思います。生き生きと働いている人もいれば、つまらなそうに働いている人もいましたが、それでも、今よりたくさん、町には働いている人がいました。
多くの人から仕事を奪ってしまったもの、それは機械とかシステムといったものです。機械とかシステムが発達したおかげで、人には仕事がなくなってしまいました。とくに単純作業、と呼ばれていたものは、機械の発達のかっこうの餌食となり、人から仕事を奪いました。単純作業であったって、そこに仕事の面白味を感じていた人はたくさんいたんだと思います。仕事の面白味自体が、昔と今では、全然量が違ってしましました。

そんな中で、今、仕事の面白味を感じることができる人間というのは、幸せな人間ですね。

ビジネス社会の中で、一番必要な層というのが、そんな、仕事の面白味を感じることができる人間だと、私は思うのです。それなのに、世の中は発達してゆくたびに、その層の居場所をついばんでしまっているような気がします。
現に今でも、会社を仕切る役員と、その下には臨時のバイト君さえが居れば成り立ってしまうような、コアの部分が欠けた企業というのもたくさんありますから。

そんな働く人の二極化のようなものは、その真ん中にいるはずの「仕事が終わるまでが就業時間」な人をどんどん除外していくようで、ひどく空しいものだと感じます。

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日本人が優秀であることの意外なワケ…?

2013年5月

たしかシンガポールでしたか、貴重な歴史的建造物を修復し、地震に耐えうるよう大規模な補強を盛んに行っています。あの辺りも日本に負けず劣らず地震が頻繁な地域なのですね。優れた耐震・制震・免震の技術を積極的に海外から取り入れたい意向のようです。

そこで驚くべきことは(いや、「やっぱりか」とも思いますが)修復・補強に参画している企業の大半が日本の会社なのです。世界の技術の粋を横並びに比べた結果、最前列に並ぶのは、やはり日本の技術力だと証明されました。

日本には、ろくに資源といえるものがありません。けれども、ひょっとしたら、そのことで逆に自分たちならではのチカラを身に付けたのかもしれません。その一つが技術力です。腕さえあれば、頭さえあれば、資源がなくとも立派に世界に肩を並べることができます。日本にはレアアースという資源はないので、中国から大量に輸入していました。そして、あろうことか輸入制限が始まりました。
しかしそんなことで諦めないのが日本人です。今度はその少ないレアアースで現状と同じ性能をあっという間につくり上げてしまったのです。目の前に現れた大きな壁を、涼しい顔でスイスイと乗り越えてしまったかのようです。実に爽快ではありませんか。

さて、私は連休に無理やり休みを取って、人が大勢いるような場所に行くというタイプではございません。社長としてはどうかな、とも思いますが、結局のところこの連休は一日も休まずに出社してしまいました。別に社員に対しての嫌がらせでも何でもありませんよ(笑)。スタッフは皆、仕事のタイミングを見計らって各々が自由に休みを取っていましたから。私はといえば、ぽつぽつとお客様との打合せが入っていたりして、連休が終わってみたら結果的に休んでいなかった、という感じです。連休のオフィスは結構いいものですよ。電話もあまり鳴らないし、自由にできる時間もそこそこあるので、マイペースで仕事をしたり、考え事をすることができます。祝日が増えていく昨今「あんまり休みが多いというにもどうかなあ…」そんなこともぼんやりと考えていました。
どこかの国では昼休みを長くとる習慣があります。アノ国はそんなだから国民が豊かにならないのではないか?日本もあんまり休みが多いと、あの国みたいになっちゃうんじゃないか?なんていうことも考えていました。

考えてみると、休みというのは自分のことを考える時間のことです。そして、仕事というのはお客様のことを考える時間のことです。休むのはそこそこでいい、と考える理由とは、そこなのかもしれません。自分のための有り余る時間なんて、むしろ私は持て余してしまうのです。自分のことなんて、結構いい加減でいいし、後廻しでかまわない、と格好つけでもなく心底思っているのです。むしろAさんの家の問題点を解決することや、Bさんの家の希望をかなえることの方が、時間も労力も必要だから、時間はそっちに廻していきたいと思ってしまいます。皆さん、多かれ少なかれ、同じような感じではありませんか?仕事に比べたら、自分のことなんて、ずいぶんいい加減ですよね?私だけではないはずです。誰もが自分のこととなると、考えるのが苦手なはずです。

そこで、はっ、と気がつきました。その発想が、ひょっとしたら日本人の素晴らしさかもしれない、と。「自分はいい加減でいい、後廻しでいい、それよりもお客様のために」これです。言葉にすると大変に立派です。でも、元を突き詰めれば、「自分のことは、べつにテキトーでいいや」みたいな、そういう実は面倒臭がり屋的な発想が、日本人を優秀にしてきたのかも…?

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わざわざそこまで足を運ぶということ

2013年4月

趣がありながら自然と景観に溶け込み、豪華でなくとも品格がある。そんな建物が、私は好きです。一中の目の前にある「湘南冨士美」もその一つです。雑然とした駅前に存続するような店ではなく、わざわざそこの味を求めて足を運ぶ価値のあるお店です。閑静な住宅街に抱かれ、心地よい潮風が吹く、そんな所にあります。

老舗の和菓子店にふさわしい、さりげない風格があり、こういう店こそ時の流れとともに消えて欲しくない、と常々思っていました。

そのお店が閉店になると聞いた時、エバーとして何かできることはないか、と皆で考えました。エバーグリーンホームが管理・運営するに至った理由というのは、そういう、実に素朴な思いからきています。もちろん、単なる地域へのボランティア的な精神だけでそうしたのではなく、エバーとしてのビジネスの側面を考えた上での結論でもあります。まあ、そうは言っても投資という面で回収できるのは遥か先のことなのかもしれません。それでも、我々の仕事というのは、こうした行為が大切なのではないかとも感じています。

そして、つい先日、私の元に朗報が舞い込んできました。ネットの「茅ヶ崎で行きたい蕎麦屋」第1位の「猪口屋」様が、旧「湘南冨士美」を借りたい、と言ってきてくださったのです。茅ヶ崎在住の方にとっては、本当に美味しい蕎麦が食べたい時に行く、そんなお店「猪口屋」。エバーのスタッフから、知人である経営者クラスのお歴々までもが「あそこは美味しいよね」と共感する、そんなお蕎麦屋さんです。ただいかんせん、現在のお店ではたくさんのお客さんが一度に入れません。「ああ、今日も入れないか」そんな思いでしぶしぶ諦める方も多かったことでしょう。

でも、旧「湘南冨士美」での新店舗なら、これからはそういうことがきっとなくなります。

考えてみると、エバーが建築プロデュースをしたお店はどこも大成功のようで、お店の皆様の努力には頭が上がらない思いです。先日1周年を迎えた柳島のフレンチ「ル・ニコ・ア・オーミナミ」、中海岸の名店「鮨裕」、そして今度の「猪口屋」様。どのお店も共通して駅から離れてはいますが、駅前にないからこそできるお店の在り方というのがあります。

駅前にある「不二家」のケーキは家で待つ子供達のためにあります。それとは異なり、駅から離れた評判のケーキ屋さんは美味しさの質も違うし、その質の違いを楽しむためにわざわざそこまで足を運ぶことに意味があります。名前を挙げたどのお店も、多くの方がそこまでして行きたいお店だということです。

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「エバープロデュース」の理由

2013年3月

良い意味で「こだわる」という言葉を、私たちはよく用います。「こだわる」矛先には大きく分けて二つがあります。

一つは、自分に向けてです。他人はどうあれ自らが納得いくまで考えて行動すること。
もう一つは、他者に向けてです。自分の主義や主張ではなく、他者の望みを叶えるために納得いくまで引き下がらないこと。

エバーグリーンホームのこだわりとは、後者です。
エバーは独自のスタイルを押し付ける会社ではありません。スタイルはお施主様が決めるもので、私たちはプロとしてそれをアシストする、それが言うなればスタイルです。なので、こだわりたい部分とは、果たしてこれでお施主様の要望に合っているか、を考えたり悩んだりすることです。大きなことも些細なことも含めて、望まれたものをかたちにする、そうしたこだわりです。

しかしながら、こだわり過ぎ?、という事実が数字には表わされてしまっています。何せ我々は現在、内部のスタッフが18名、そのうち設計は9人足らず。その規模であれば、同規模の建売業者は年間で300棟をクリアします。しかしながらエバーは年間30棟がせいぜいです。考え方の尺は違うし、このような計算は無意味かもしれませんが、建売10棟の労力を、エバーは注文住宅1棟に費やしている計算になります。

もうちょっと上手くやれないのか?と考えたりもします。でも、これは私やスタッフの性分で、なかなかできるものではありません。企業として合理化というのは命題ですが、それが「こだわり」まで浸食してしまうことがとても怖いと感じているからです。家が完成した後にお施主様から言われる「こんなに丁寧につくってくれるとは思わなかった」「夢だと思っていたことを実現してくれた」そんな言葉が合理化と共に消え去ってしまうなんて、非常に恐ろしいことです。合理化は、得てして仕事の最も大切な「魂」を抜き去ってしまいます。

そこで、私が中心となって主導しているプロジェクト「エバープロデュース」とが、スタッフのこだわりや、エバーの最も大切な魂を保護しています。
フレンチの「ル・ニコ・ア・オーミナミ」、寿司の「鮨裕」、それらはエバーが土地から介入してさまざまなコンセプトを打ち立て、店舗関係者やオーナーと二人三脚でつくってきた「エバープロデュース」です。双方のお店はオープン当初から現在まで、予約が殺到しています。おいしいものを求めてお店にやってくるお客様が後を絶ちません。素晴らしいお店です。

合わせて、「ル・ニコ・ア・オーミナミ」も「鮨裕」も、かつて湘南にはなかった本格店でありながら、同時に、その空間をつくったエバーを広告してくれるスペースになっています。「そろそろ家を建て替えたい」と思っている方が、無意識にエバーの建物に触れる場なのです。わざわざ意を決して、恐る恐るエバーのドアを開けてくださらなくとも、エバーのこだわりをスマートに感じていただけるスペースなのです。

こだわりと表裏一体である合理化を無理やりに行わないかわりに、エバーの魂に触れてもらう場を多くつくる。そのことでお客様の数が増えればいい。それはさらに、個々のお客様への利益還元も増えます。お客様に幸福をもたらすための、円滑なフローチャートです。

エバーがビジネスの幅を広げている、というような勘違いをなされている方がいるとするなら、それは大きな大きな誤りです。「エバープロデュース」をはじめとする全てのPR戦略は、エバースタッフのこだわりを守るためにあり、その結果として、お客様にとってのいい家を建てるためにあります。目的は、それだけです。

そして現在、「鮨裕」「ル・ニコ・ア・オーミナミ」に続く「エバープロデュース」の店舗プロジェクトの骨格が、見えてきました。進展とともに、この場でご報告していこうと考えております。

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日本人が指導下手?

2013年2月

教育界やスポーツ界において、教える側の暴力の問題が頻繁に取り沙汰されています。

体罰は時と場合によっては必要です。わるいことをした人に、された人の痛みを感じさせるというのは、それが必要な時があるからです。目的が正当であれば、痛みを身をもってわからせることは、「しつけ」と考えることができます。良くないのは、正当な目的がない状態で拳をふるう時です。それは、体罰ではなく、暴力になります。
現在問題視されている人々は、なぜ暴力をふるうのか。その主な原因は、指導力の無さのようですね。自ら「教えるのが下手なタイプ」と公言するくらいですから。教師であれ、オリンピックのコーチであれ、教えることが苦手な人物が問題視されています。「口より手が先に出る」といったところでしょうか。
不思議なことに、日本は先進国の中で、指導力が著しく低レベルであるらしいです。どうしてなのでしょう。精神的な側面も、技術的な側面も、あらゆる面で優秀な民族であるのに、ものを教えるということにおいては、咄嗟に「口より手が先に出る」のです。不思議ですよね。

日本のコーチングにまつわる技術を標準レベルにするには、その中に暴力を無くすためのルール作りは欠かせないでしょう。ところが、そこで難しいのが、「しつけ」と暴力の線引きです。「しつけ」も含めて、手を出すことは全て暴力だと定義された場合、他人の痛みを感じさせるという正当な目的を持った「しつけ」も、手を出したら全てNGです。手を出す親が子供よりも心を痛めて行う「愛のムチ」も、絶対に駄目になります。・・・どうなんでしょう。そこまで画一的に線を引いていいものかどうか。とても難しい問題です。

皆さんも同じだと思うのですが、私も、周囲の多くの人間に対して、均等に、画一的に付き合っているわけではありません。相手が間違ったことをした時に、それを諭す方法というのも、相手を見て、相手の立場を考えて、行っています。長年親しい相手には、本音も交えつつ肩を叩いて(暴力ではありません 笑)諭した方が伝わりやすいと思うし、逆に、傷つきやすい繊細な感性を持った人には、その人の感性に近づいていって、静かに諭したりもします。言葉を選び分けたり、話し方を変えたり、声の大きさまで相手に応じて調節します。
当たり前のことですが、人が人に何かを教える時には、そういった多用性を日々使いこなしながら生きています。どう考えても、均等で画一的なコミュニケーションを全ての人にやっているわけではありません。

統一のルールというのをつくる発想は、一見、平等に思えます。しかし、これは実はとても非現実的です。AさんにはAさんへの教え方がある。BさんにはBさんへの教え方がある。それが現実だから、平等なんてあり得ないのです。

そう考えると、より高度な応用力をもった日本人ほど、画一的なルールを設けることは、なかなか窮屈に思えますね。かといって、それをしないでいると、いつまで経っても相手を見誤った身勝手な指導というものも、後を絶たないだろうし・・・。

道徳観念が変わっても、日本人のいいところは変わらないで欲しい。そんな風に思います。実はそれがいちばん難しいことだとは思うのですが。

 

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2013年を迎えてのご挨拶

2013年1月

新しい年が始まりました。今年もエバーグリーンホームへの変わらぬご愛顧をよろしくお願い申し上げます。

新政権が発足し、株価が復調し、皆がどこか明るい兆しを感じながら、この新しい年に向かって歩き始めたような印象を受けます。
私はと言えば、昨年末に保管していた古い図面や資料など、この先必要ないだろうと思われるものを、一気に処分し、気持ちもさっぱりとしました。なぜそうしたのか?はっきりした理由はとくになく、何となく、でした。そろそろやらないとな、程度のことだった気がします。
「いやースッキリしました。」なんて、お施主様でもあり昔から体のコンディションを整えてくださっている整体の横山長生館院長に、他意もなくそのことを話しました。それを聞いた院長「それはマヤ文明の2012年人類滅亡説に関係しています」と言うのです。
私はビックリしました。私とマヤ文明がどこでどうつながっているのかは謎です。
しかしながら、マヤ文明には「歴史は繰り返す」という観念があるそうで、その節目が昨年の12月21日からの数日間だったらしいのです。私が身辺整理をしたのが、まさにその頃でした。
とすると、私は人類の節目のタイミングに本能で持ち物を減らし、大切な物だけを携えて来るべき新時代に立ち向かおうとしていたことになります。恐るべし、マヤ文明。恐るべし、猪狩裕一…。

冗談はさておき、エバーは今年も変わることなく良きお施主様に恵まれ、業績を着実に伸ばしております。すでに明白なこととして、今年は一昨年の歴代最高実績を上回ることになりました。これは、ひとえにお施主様のおかげです。なぜかと言うと、エバーのお客様は、8割が既存のお客様からのご紹介です。エバーで家を建ててくださり、満足をしていただいたお施主様が、新しいお客様を紹介してくださっているわけです。ありがたいことに、広告予算など注ぎ込まずとも、お施主様どうしの交流が実績の8割を形成しています。
よくテレビや雑誌で「顧客満足度」という言葉を目にしますが、エバーは広告などで明言せずとも地でそれを行っています。感謝の気持ちしきりです。何より、私を含めて、スタッフの「やるべき仕事に不安がない」という感覚が、いい家を作ろうという思いをより強固にしていきます。自分たちへの期待が、後から後からやって来る、こんなに張り合いがあることはありません。

しかし、それで良し、としては、人間も会社も駄目になってしまいます。精進してこその維持です。評価をいただくということは、その評価より少し足りないことをしただけで、万人から駄目になったと簡単に言われてしまう。すぐ手が届く場所に目標を作ってしまった者は、そこから先には伸びません。目先の利益にとらわれてしまった者は、それより多くの利益を生み出すことはできません。すぐ近くの目標や、すぐ手に取れそうな利益、それは物やお金です。そうではなく、エバーは、人とか、志とか、夢とか、そういうものをお施主様に感じてもらえる会社でありたいと思っています。

小さなことをきちんと行う。大きなことをきちんと考える。人として、会社として、「力をつける」とは、そして家をつくるということは、すなわちこういった「基本」を大切にすることであると、あらためて考えていました。

2月には、久しぶりに完成内覧会を開催したいと考えております。エバーの精進を、ぜひ確かめにいらしてください。お待ち申しあげております。

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