EVERGREEN HOME | 株式会社エバーグリーンホーム

お問い合わせ

President,s Column | エバー代表のコラム

President's Column | エバーグリーンホーム代表・猪狩裕一の思いをお伝えします。

年別アーカイブ:2015年

若い頃には気づかなかったこと。

2015年12月

自らの会社を少しでも強く、大きくしたいという気持ちは、全ての経営者がもっているものです。私の場合も同じです。有名な実業家のご自宅や、よくテレビに出ているような人気者のご自宅を任される。こういったことの積み重ねも、言葉には出さずとも、それは会社を強く、大きくする要素として大切なものであると感じていました。なぜなら、非常にわかりやすい“実績”や“顔”となるからです。ただそれだけで「あれほどの方がエバーを信頼しているのか」と思ってくれます。同様に、本社を今の場所に移したことも「あんな一等地にかまえるのだから立派な会社に違いない」と思ってくれます。誰もが一定以上の評価をします。そして、それはまた自分個人の野心の結実でもありました。「どうだ、まいったか!」みたいなね(笑)

しかし、今になって考えてみれば、そういったステイタスの表現、若い頃に思っていた「まいったか!」みたいなステイタスの表現というのは、本来は違う役割をもっているのではないか?と、今になって思えてきました。

たとえば、“著名人のご自宅を建ててきた”という行為は、今となっては「そういう希有なケースにも臆することなくノウハウが発揮できることを、個々のお施主様に理解してもらい、安心してもらうため」だったのでした。また、東海岸1-1-1という一等地に移転したことも、見栄を張った行為ではなく、「エバーで家を建てたお施主様にとって、常に堂々としている様を見せられれば、この先の未来も安心してもらえるはず」という理由でした。そりゃあ、若かったのですから見栄も自慢は多少なりともあったのだとは思います。でも今となっては、むしろそうしたことには微々たるもので、それよりも大切なものを見据えていたのではないかと思います。見栄を張ったり自慢をするよりも、安心してもらうことを大切に考えていたはずです。だって、そのことの方が遥かに重要ですから。

若い頃は誰にでも野心というものがあります。しかし、ある年齢を通り過ぎると、その野心というものは、かたちを変え、無駄なメッキは自然にはがされて、自分の中で真に価値あるものとなり、輝き続けていくのだと思います。

自分の家を建ててくれた会社が、今日もこうして、堂々と元気そうに同じ場所にある。それは些細なことのようですが、お施主様にとってはこの上なく大きな安心であると思うのです。そう有り続けることが、今の私の、一つの強い心です。さながら成熟した野心だと思っています。

photo_201512column

↑ページの先頭へ戻る

あり得ることではない、今回の事件。

2015年11月

今回の旭化成グループのマンション不正問題について、建築の現場にいる側から解説したいと思います。

どうも最近のマスコミというのは作為的ですね。食いつきのよいネタや真相の一部分しか取り上げることをせず、国民の不安を煽ります。リアルな建築関係者が参加し真相を掘り下げる真摯な報道番組があったならいいのですが、芸能人的な出演者は皆が一様に「ひどい話ですね〜」「恐いですね〜」と表層だけを捉えてばかりです。あげくには、磨りガラスで顔が見えない匿名の現場監督が「今回のような失態はよくあることなんです」のようなことを言っていました。今やヤラセは御法度ですからそいつはまさしく悪徳建築業者です。そういう人間もいるのかもしれません。しかし、そのような例外的な人物を典型的な人物のように置き換えたような映像は、あたかも大半が不正をしているように見えて、作為的です。ほとんどの視聴者が「やっぱり日常茶飯事なんだ、ああ恐ろしい…」と思うでしょう。
しかし、今回の件は「異例中の異例」であると私は断言します。私の同級生に「杭屋」がいます。経験豊富な杭打ちの職人です。今回の件について感想を聞いてみたところ、答えは「あり得ることではない!まず考えられない!」ということでした。私とまったくの同意見です。

基本的な話からさせていただきます。
杭というのは地盤の強固な面(支持層)まで到達させます。しかし一般的には契約前の土地に対して具体的な杭打ち調査というのは行うことができません。まだ他人が所有する土地なのでそれは当然です。そこで、業界には近隣の地盤データというものが存在します。地盤というのは極小の面積で変位するものではなく、ある一定の範囲では一様に適用されるものなので、周囲の複数のデータを複合的に分析すれば、該当する土地のおおよその地質を推測することができます。その推測はほぼ正確で、今までずっとそのやり方で、どのくらいの長さのどういった性質の杭が必要になってくるのかがその段階で把握できていました。
そうした準備を行って後、土地を購入し、そこで初めて該当する土地の本地盤調査が行えます。おおかたは、近隣のデータから推測したものと合致するわけですが、そうではなく、事前の推測と本地盤のデータの食い違う場合も時にあります。例えば「周囲から想定したデータよりもこの場所は例外的に支持層が深かった」ということが判明したりします。そのような場合は、施主にその事情を説明し、資材を新たに調達して、想定より深く杭打ちをする必要があります。そのための工期の遅れというのは、やむを得ないものとして理解していただくほかありません。

ちなみにエバーの場合は、その理由ある遅延を報告することは、お施主様には多少のスケジュール的なご迷惑をかけることにはなっても、それを隠蔽などする必要はありません。杭打ちにタイムラグが生じても、なるべく施工遅延の起きぬようスタッフや職人が連携を取り合っていけばいいだけの話ですから。
しかしこれが複数の上下組織と多くの人数、そして遅れを許さない次の現場を抱えている事情の場合、それは正直な気持ちとして、現場監督に同情をせざるを得ません。仮に杭打ちで1週間遅れるだけであったとしても、その後の多くの職人のスケジュールを組み直すことを考えれば、それはへたをすると2〜3カ月、完成を送らせることになります。そうなると、親会社にとっても、数多くのマンション購入者にとっても、施工にまつわる関係各社にとっても、果ては関連企業の株主にとっても、芳しいことではないでしょう。
今回の件の真相が、そのようなことに起因しているのだとしたら、もちろん悪いのは当の現場監督ですが、同時に、その人物だけを責めたら事は済むのかと言ったら、それは違うと思うのです。やったことは確かに重大であり、今回の件は人災です。
しかし、このような人災は、当事者の我々が聞いたことがないほどに希有です。友人の杭打ち屋曰く「あり得ない」くらいに。なので、テレビや新聞で騒ぎ立てるほどに心配する必要はないと、私は思います。

マスコミはやたらに「データの流用」に焦点を当てています。しかし、問われるべきはこのように「データの流用」ではないのです。「データの流用」だけを探し出して不正建築を洗い出したら終わり、ということではありません。なぜ当の現場監督がそのような失態を起こしてしまったのか、その原因を追及することだと私は考えます。これは、現場に携わる多くの建築関係者が、一様に感じているはずです。

photo_201511column

↑ページの先頭へ戻る

努力して、試合に出て、勝つ。それはゴールでなく、スタートである。

2015年10月

私が子供の頃は、男子は誰もが野球でした。茅ヶ崎にはたしか10数もの少年チームがあったと思います。

彼は私より3つ年上でした。だから私が小3なら、彼は小6でした。野球が上手い子はすぐに友達の間で噂になる。彼はいつも噂の的でした。「6年生にさ、すんごい球投げるのがいるんだってよ!」「それ知ってるよ、めっちゃ速いピッチャーだろ!」…でも、それは彼にとってまだ夢の始まりでした。追いかけ続けた夢は、プロ野球のピッチャーとなり、数々の記録を打ち立て、史上最年長ノーヒットノーランを達成する偉業まで成し遂げました。そして彼は先日、今季での引退を表明しました。茅ヶ崎のグラウンドで驚くような速い球を投げていたその少年は、中日の山本昌選手です。プロ野球最年長での投手引退となりましたね。まさに「レジェンド」です。

話はラグビーワールドカップに変わります。南アフリカ相手に大金星をつかんだことで日本中が沸きましたね。ラグビーなんてはなから興味がない人でも話題にしていました。同じくラグビーなんてはなから興味がない私でさえ、その次のスコットランド戦をルール無知のままテレビ観戦し、興奮しました。強烈な肉体のぶつかり合いに「うわ、なんだこれは…」と圧倒的な感動を覚えました。南アフリカに奇跡の勝利、などとビッグニュースにならなければ、私はラグビーなどこの先永遠に観戦しなかったかもしれません。強くなったから、私を含めてとても多くの人が初めて注目したわけです。このことで、ラグビーに目覚め、将来は日本代表になる子供たちがたくさん生まれるかもしれません。

かつては国民的スポーツとも言われ、その後は衰退の一途をたどっていた、テニスというスポーツ。そこに彗星のごとく大スター、錦織圭くんが現れました。彼の活躍はテニスというスポーツの魅力をあらためて日本人に突きつけました。それまでさほど人気がなかった部活のテニス部が活況を呈するようになりました。

かつては男の子たちにとっては野球が全てのようなものでした。でも最近は実にたくさんの夢の入口があります。サッカーもJリーグができ、ワールドカップに出場するのが当然のようになると、れっきとした夢の入口として定着しました。プロ野球は言わずもがな、今度はラグビー熱が始まりそうな予感です。

しかし、時代は変わっても、注目されるものの数が変わっても、変わらないことというのがあります。それは「勝ってなんぼ」ということです。勝たなきゃ、話題にすらなりません。話題にすらならないことなど、人気にはなりません。人気がないことになんて、誰もサポートしようと思わないし、お金を払って観に行こうとも思いません。勝たなきゃ何も始まらないということです。簡単な理屈なだけに、それはとても深いものであると思わせます。

私たちエバーは、お客様にデザインを売っています。それだって実は毎回、勝ち負けを行っているようなものです。私たちの場合「勝つ」とは、一つをたとえて言うなら、アイデアを気に入っていただくことです。「負け」とは、その反対です。なるべく初戦で勝たなければならないし、結果は常に勝利しなければならないものです。そういった日々の勝ち負けから避けて通ることはできないのでした。

だからこそ、なおさら気をつけなければならないのだと思いました。それは、試合放棄すること、すなわち勝ち負けから逃げて、楽になろうとすることです。それを考えてしまった時、私たちにとっての次の試合というのは、もうないのだと思います。

楽をしたら、勝つことはおろか、試合にも出られません。スポーツであれ、どんなジャンルであれ、勝つ人は、それを知っているのだと思います。

photo_201510column

↑ページの先頭へ戻る

デザインの問題なのか?それとも私の問題なのか?

2015年9月

最近のトレンドがよくわからないでいます。以前にもこのコラムで書きましたが、頓挫した新国立競技場のデザイン、あれ、いいんでしょうか?自転車のヘルメットみたいな、あのデザインです。しかも、それを作るのに莫大なお金がかかるところでした。あれ、みんながみんな、いいね!、かっこいいね!、と思っていたんでしょうか?いや、これは私のデザイン感覚を誇示しているわけでは決してありません。むしろ逆で、それを理解できない自分はやはり古いのかな、と、自分自身を疑っていたりしています。

それと同じく、最近のクルマのデザインが、私にはわかりません。ある国内メーカーのクルマは、どれもみんな最初からエアロパーツをくっつけたような、何だかふざけたデザインに思えてしまいます。フロントグリルがやけにアニメっぽくて、走っていたらマジンガーZやガンダムに変身するのではないかと思えてしまうような顔付きをしています。我が家にはトヨタのLLクラスのミニバンがあります(LLクラスのミニバン、変な言い方です笑)。必要に迫られて使っていますが、やはり顔はひしゃげたガンダムのようです。中は高級感があるしサイズや機能は申し分ないのですが、どうもあの顔は好きになれないでいます。

あ、そもそもなぜデザインの話をしているかというと、あの五輪エンブレムの問題があったからでした。知人のグラフィックデザイン事務所の人間はこう言っていました。「当初の五輪エンブレムの時点では擁護していた。しかしその後に掘り起こされた類似デザインの数々を見て、あ、もうこれはダメだ、と思い彼を擁護できなくなった」まあ、それはともかくとして、あの五輪エンブレムについても、私は、競技場やクルマと同じく、同じくガンダム的な潮流を感じた次第です。角が「ガシッ!」線が「シュパッ!」丸が「ギュンッ!」みたいな、あーまたガンダムか…などと感じていました。

好きではないものを突っぱねているだけでは、進歩はしません。なので、好きでなくても「好まれる理由」というものを常に知ろうとしています。そしてその一方で「自分の感性はもう古いのかもしれない」と考えるようになっています。建築の本業においても、感性の衰えた人間の指図は迷惑だと思うので、なるべくスタッフの感性を尊重しようと思っています。

トレンドというのは、日に日に速さを増しているようです。3年前のデザインがもう古い、と感じるこの頃です。

しかし、私がまだ若かった頃は、新しいことを重要と思うのと同じく、美しいことを重要とも思う世代でした。その頃、街中を「ピアッツァ」というクルマが颯爽と走っていました。「117クーペ」というクルマが走っていました。それらはいすゞが工業デザインの巨匠ジウジアーロに依頼してつくった、美しい大衆車です。ご存知のないお若い方々はぜひ画像検索なさってご覧になってください。魅力的なデザインというのは、何十年経っても美しいものなのです。

人間工学だとか空気力学だとか構造フォルムだとか、そういう最新の機能性から、どんどんいろいろなものが自転車のヘルメットみたいになっていきます。あるいはロボットのようにメカニカルになっていきます。しかし、我が家のLLミニバンはふだん一般道を走るので、最新の空気力学を計算したあのガンダム顔など、F1じゃあるまいし実際にはいらないはずです。だったら、いろいろなものは、もっとシンプルだったり、優しかったり、スマートな方がいいのではないか?と思います。何でもかんでも自転車のヘルメットみたいになり、そして、あげくの果ては家までも?…う〜ん、それはきついと思います。

photo_201509column

↑ページの先頭へ戻る

家を建てる人が望む幸福の在り方。

2015年8月

積水ハウス、ダイワハウス、住友林業、旭化成、ミサワホーム、三井ホーム…。国内で売上上位を占める大手ハウスメーカーです。思いつくままにランダムに挙げてみました。住宅を販売する会社で、これだけ規模の大きな組織が揃っているのは、世界の中で日本だけなのかもしれません。

どうしてこういった企業は大きく成長することができたのか?それら企業には、日本人が大切にするものが資産としてあります。それは「安心」とか「信頼」といったものです。実績を積み上げて、「この会社にお願いしておけば間違いがない」という心の拠り所を築き上げてきたからこそ、組織として立派になりブランドとして立派になったのだと思います。

先日、某大手ハウスメーカーがつくった注文住宅の図面を眺めながら、エバーの若いスタッフがポツリともらしました。「ふーん、この程度ならうち(エバー)の方がよっぽどいいものをつくれるのに…」図面だけを比較したら、そう思えてしまうことがあるのかもしれません。しかし、それは大きな誤りです。

大手ハウスメーカーは、一つの出来上がった家の中に、無数の、膨大ともいえる、検証が内包されています。企業の規模が大きくなればなるほど、そこには数限りない稟議(りんぎ)が必要となります。一つの商品に多くの人々が検証を行い、その全てにおいて承認を必要とします。どんなに小さな部材の一つをとっても、耐久性や健康性や調達性やデザインの洗練性や…そういったあらゆる側面で試行錯誤とテストを繰り返し、合格印を受けたものだけが正式な部材のラインナップとして家を構成していきます。階段手すりの種類が3種類「しか」なかったとします。しかしそのたった3種類は、どれもが信頼や安心のかたまりであるわけです。

要するに大手ハウスメーカーとエバーとでは、戦っている土俵が違うということです。大手ハウスメーカーの家を、「安心」ととらえるか、「ありきたり」ととらえるか、それだけでも正反対の評価になります。エバーはお客様のお好みに応じて、たとえば階段手すりをオリジナルでつくってしまうことができます。もちろんただつくるのでなく、たくさんの検証を行ったうえでつくります。もちろん安全ですが、大手ハウスメーカーの安全性を必要とする人々にとってのそれとは種類が異なります。大手ハウスメーカーを欲する人と、エバーを欲する人というのは、求めるものが根本的に違います。

エバーのお客様は「家を自由に考えることができる」という幸福感があります。一方、大手ハウスメーカーのお客様は「○○ハウスで家を建てる」ということそのものに幸福感を感じます。要するに、家を建てる人が幸福であるなら、それはどちらも正解なわけです。

photo_201508column

↑ページの先頭へ戻る

別の国でやった方がいいんじゃない?

2015年7月

あと5年で東京オリンピックです。そこで例の新東京国立競技場なんですが、あれ、どう思われますか?私は正直「ウ〜ン…」と感じております。実際、世論調査でもさんざんなようですね。私には「ヤンチャな方々が乗ってる車」のようにも思え、あるいは「ガンダム?」、あるいは懐かしのアニメ「マッハGOGOGO?」とか。世界的に有名な建築家であるザハ・ハディッド氏によるものなのですが、なんか違和感を感じるのです。今は21世紀の日本です。高度成長期の如く国の勢いを海外に知らしめる必要がある時代だったのならわからないでもないです。しかし、あんなの今作るのって、どうなのかな?と。海の向こうの、飛ぶ鳥を落とす勢いのあの大国なら、有りでしょう。「どうだ、オラの国すげーだろ!」と大声を張り上げればいいです。でも、どうして今の日本であれなの?と思ってしまうのです。

そして、当初の試算よりさらに900億円かかります、とか、もう訳が判らないです。見積り取ったら柱がとんでもない値段だってわかりました、とか。デザインのこと、お金のこと、いったい誰がわるいのでしょう?元都知事の某○しはらさんとか、有名建築家の某○んどうさんとか、そういった当事者のお歴々は、当事者としての責任はどうするのかな?その辺りが一般的には曖昧です。

そこで考えてみました。あれは、建築家とクライアントがするやりとりではないのではないか、と。これは、芸術家とパトロンがするやりとりではないか、と。そうであれば合点がいきます。我々の仕事はこんな「あなたの希望するお宅を予算内で作ろうと思いましたが、実際にはこんなにかかるみたいで、だからあと倍ください」なんていうやり方をする人はいません。提示される予算の範囲内での現実的なプランを提示する、というのが原則です。世界が違うとはいえ、予算の算出が想定できにくいものであっても、「前例」とか「相場」とかいう物差しはあるだろうわけで、それを気にしないで「作りたいものを作ります」というところから始まっているというのは、これはもう間違いなしに道理が違う、世界が違う、と思えてしまうわけです。

一般的な建築業界にだって、予算遵守の原則とは例外の行為というのがあります。それは、クライアントに予算の振れ幅を感じる場合です。そうした時は、こちらの見極めで「ランクアップした予算のランクアップしたプラン」をお見せすることもあります。そういうクライアントにとって、予算は言わば便宜上の目安であり、したがって金額よりもプランの質を重視するタイプの方だからです。そうした方には、杓子定規に予算を遵守するだけでなく、予算を多少度外視したクオリティをお見せします。すると、逆に「私はこういうプランを見たかったんです」などと逆に感動してくださる場合が多いのです。私たちの仕事というのは、原則予算重視でありながら、そうしたパーソナルな見極めというものも重要になってきます。そして、その見極めがビジネスであり、顧客の満足にもなるという、双方が幸福な結果を生み出します。いずれにせよ、常識的な範囲内で全ては対応されていきます。

嫌、それよりも引っかかっているのは、デザインの方かな?私にはどう見てもあれが「マッハGOGOGO」に…。

photo_201507column

↑ページの先頭へ戻る

ブレる男でよかった。

2015年6月

「ブレない男」なんていうキャッチフレーズのカッコいいCMがあったように記憶しています。ブレない生き方の指南本も売れているようです。かたや押しも押されぬアラヒィフである今の自分の歴史を振り返ってみると、よくもまあこれだけ頻繁にブレてきたもんだ、と逆に感心してしまうような人生です。しかし、それはわるくない、イヤむしろ良かった、と思っているのです。私の場合は「ブレる男でよかった」。あっちこっちに揺れることで成長していったように思います。

考えてみたらば、CMに出てくるような目つきの鋭いブレない男は、最初から信念が正しく出来上がっていた完璧な人間像でした。だからブレないことがカッコいい。しかしそんな人間は希です。最初からでき上がっている人間なんてそんなにいるものじゃない。人はだいたいにおいて、誰かの影響を受けて価値観を変えたり、信じていたものに疑問を持ったり、そういったことを繰り返しながら変わっていった方が良いのではないか、と思います。むしろブレることができない人間は、成長できないのかもしれません。

私の場合、かつては自分と似たタイプの人間が、今よりも多く周囲にいました。類は友を呼ぶのでしょう。そして、私は、自分に似たタイプのその相手を見続けることが苦痛でした。彼らの属性は明確で、主としてビジネスにおいて、良い点も悪い点も含めてブレない人です。そんな人達のことを、私は、まるで鏡に映る自分を見るように嫌悪していました。自分と同じ目的で、自分と同じような価値観を持った人々だから、理解できたし共感することももちろんありました。ビジネスの付き合いだからそれも当たり前のことじゃないか、とも思っていました。
しかし、いかんせんその交流には、大切な何かが常に欠けていることを、いつしか感じてしまうようになりました。それは、ビジネスだからとごまかしてはいけない大切なものが欠けていました。そして、やがて私の中で、彼らと私との決定的な違いを感じるようになりました。

彼らは、自分自身について間違いは何もないと信じています。ブレがないのです。そして私の方は、彼らが持っていない何かが、自分にも欠けているのではないか、と、心配して、そのことでどんどんブレていく人間です。そうなったら、ブレることができる自分の方からしか、遠ざかることができません。仕方がないことでした。彼らはブレないのですから、それ以外の道は探す必要がないのです。途中で道を曲がることができるのは、私の方だけなのです。

ブレない人。ブレる人。どちらが幸せなのでしょう?かつての私は、ブレない男への憧れもあったように思います。でも、今は、ブレてきて良かった、と振り返って思います。それが、私が「学んだ」ということだと思います。結論から言えば幸せだったはずです。今後の私の人生はきっと、心地の良い人間関係へと、さらに幸福な方向へとブレていくと思うのです。

まあ社長業である以上、頭の中の割合は相当な比率で、ビジネスという利益創出に費やされている、それは間違いないでしょう。そこに大切な人間性を求めることは、甚だ難しいことです。それでも私は、心ある人々と、続いてゆく関係を育んでいこう、と考えています。

photo_201506column

↑ページの先頭へ戻る

言うは易し、行うは難し。

2015年5月

皆様、連休はいかがお過ごしでしたでしょう?日々の疲れを癒すとか、家庭サービスに励むとか、いろいろだったのでしょうね。さて、私の場合は「連休だから」という意気込みは例年さほどなく、今年もまた淡々と過ごしました。スタッフが休みを取っている時間、私は経理担当と共に会社で電話番などをしていました。

特別なことが起きない限り、電話番の仕事というのは極めて暇です。私はその時間を利用して「少しは勉強でもしてみようか」と思い立ちました。ただ、コアな建築の専門書や雑誌は普段からながめているので、そうではない角度で何か見識を高めよう、と目論んでみたわけです。そこで、もう少し視野の広い、言わば経営者として読むべきものなどを選んでみました。我ながらいい発想だ、これなら有意義なこと間違いなしだ、と、楽しくなってきました。

手にしたのは「新時代の経営戦略」的なタイトルの本です。さてどんなことが書かれているのかな?「顧客の声をきちんと聞いているか?」う~ん、そうか…。何かを吸収しようと前向きになってはいるのですが、実に言っていることが当り前過ぎて、何も入って来ません。気を取り直して、さらに進んでみよう。「組織としてのブランド力を高めるために」。お、なかなかいいぞ、どれどれ。「自分達本位の商品になっていないかきちんとチェックをすること」「お客様の心の声がきちんと聞けているか己を疑うこと」…。…。…。ついに私はひと言つぶやきました。「なにこれ?」

ビジネス書って、どうしてこう、当り前のことしか書いていないのでしょうね。当り前のことをあらたまって言葉にして、つい忘れがちなことを思い出させるというのが、まあその役割なのかもしれませんが。しかし、そうだとしたら、それは初心をすぐ忘れてしまう人々だけが読めばいい。私の場合は仕事のひとつひとつに対して本の中に書かれているようなことを反芻する癖がついているので(何しろエバーはお客様のビジョンに応じて家も180度考え方が変わる、そういう企業ですから)、結局そういう本というのはどれも、同じ内容のことを言葉を変えて繰り返しているだけのようにしか感じないのです。

この手のものを書いて出版する人というのは、コンサルティングを生業にしている人が多いようです。その方々には甚だ失礼ですが、エバーという会社も、私という人間も、コンサルティングは必要としない会社だし人間です。コンサルティングがある一定の思想や型にはめるのが職業だとしたら、型にはまらないベストな答えを常に自由に出す、というのがエバーのやり方です。真逆と言ってもいいのかもしれません。「お客様の心の声」なんて、基本中の基本。それを思想や型からしか得られない人間は、まずエバーでは務まらないでしょう。経験則から身につける、やっぱりそれが大事なんですよね。建築の授業だけ受けて優秀な建築士になれた人なんて、いるわけがないのです。

「なあんだ」という思いで、私は本を閉じました。これでは有意義にしようと思っていた私の時間が台無しだ。どうにかして取り戻さないと…。そこで、私は今度は迷いなく「007」のDVDを手に取りました。こっちの方が、遥かにエキサイティングじゃないか。最初からそうすれば、よかった。

photo_201505column

↑ページの先頭へ戻る

掛け算や割り算ができないワタシ。

2015年4月

いま何が重要なんだろう?とよく思います。それは意識して「考える」というより、意識せずに「思う」レベルですが。でも、それはとても大切な日々の動作だと思うのです。ちょうどアンテナが雑音も含めて拾うように、要るか要らないかは別としてとにかく拾っていくという、無意識の中の意識、のような習慣です。そして取り入れられるものは取り入れていく、古いものは置き換えていく。そのために、気持ちはいつもキョロキョロしています。

最近は私が主導となって、エバーのちょっとしたイメージチェンジを、さりげなく進めています。まずはロゴマークの一新。懇意にしているグラフィック関連のディレクターやデザイナーと共に考えています。今のロゴマークもスマートで美しいと評判をいただいておりますが、最近は「古いものは置き換える」ということのピッチがとても早く感じるのでしょうか、いま輝いて見えるロゴマークはどんなだろう、ということをあらためて思い、取り入れられるものは取り入れていこう、と考えています。

エバーのお客様はクリエイティブな感覚が優秀な方が多いです。お洒落を知っている人がダサい店員さんのいるブティックで服を買わないのと同じように、そうした方々は、自分の家を建てようとした時に容姿や考え方に鈍さのあるハウスメーカーや工務店に家づくりを依頼しようとは思いません。なんとなくここはわかっている、という人や会社というのは、そうした方たちに失礼のない顔立ちをして然るべきです。それは礼儀のようなものでしょう。そうした時、ロゴマークなどというものは、最初に品定めをされるものです。

そう、そうした変革のための作業というのは、単にトップの心変わりとか、暇だからイメチェンでもするか、というような底の浅いものではなく、「ちゃんとわかっています」という思いを伝えるために必要なものです。うわべだけの格好つけではなく、感性の優れたお客様を呼び込む、という実利をともなうからです。家づくりだけでなくカタログづくりにも気を遣っている部分とか、家づくりだけでなくエバーのグループ会社がどこも洗練されたロゴマークで統一されている部分とか、それこそお施主様や近隣住民様への態度ひとつに至るまで、失礼がなく美しい所作でいること。ちょっとした時代の変化に敏感であること。そうしたことが会社の格になるし、(失礼な言い方かもしれませんが)レベルの高いお客様を招く大切な要因にもなります。

家づくりの本質部分においては、最近は家具やテーブルウエア、アートなどで人気の「TIME & STYLE」さんと良好なパートナーシップをもっています。ご存知ない方のために、「TIME & STYLE」は日本の美意識を感じさせる家具や洗練されたスタイリングで、優れたセンスを放っており、六本木の東京ミッドタウンや二子玉川の高島屋などにショップを展開しています。ですから当然に高いクオリティがあります。またトータルな住空間をプレゼンテーションしているので、とても参考になると思います。「タイムアンドスタイル」で検索なさってください。すぐに見つかります。

そう言えば、最近ある人からこんなことを言われました。「猪狩さん、あなたは足し算や引き算はできるけど、掛け算や割り算ができない人だ」と。ビジネスにおいて、実際にやったことに対して少額でも確実な利益を得ることはできるが(足し算や引き算)、大きく投資をして損することも含めて大きなお金を動かす(掛け算や割り算)ことができない、という意味です。いやはや見ぬかれました。私には、コツコツとイメチェンなどして会社らしさをアピールしたり、いま話題のインテリアを紹介することでお施主様の生活感度を上げる努力は容易に想像がつきますが、5手も10手も先を見越して大きなアクションを起こすなどは、そういったノウハウは持たないし、第一どうも相に合いません。堅実な性分は、今後も変わらないような気がします。

photo_201504column

↑ページの先頭へ戻る

面白いけれど、面倒だから放っときます。

2015年3月

前回は、一般的な常識が欠如した問題ある人について、書かせていただきました。それはそれで深刻な主題であったので、今回は軽く、「面白い人々」について書かせていただきます。

自分を大きく見せようとする人がいます。常に周囲より優位に立っていないと気が済まない人のことです。私の周囲の面白い人で例を挙げてみます。Aさんという人は、常にブランド物で身をかためています。こういう人は見ていると実に面白くて、その身につけているブランドを知っている人に対しては「いえいえ大したことないですよ〜」とへりくだりますが、そのブランドを知らない人や、ブランドなど別にどうでもいいと思って触れない人には「これこないだ買ったんだけどね〜」などと積極的に触れてきます。対応が真逆なんですね。結局、触れて欲しいわけですが。ただ、私としては、本音ではこう言いたい、というのがあります。「あなたは、そのブランドが買えるという、財力を褒められたいのですね?うん、別にいいですよ、お好きにどうぞ。ただね、似合うかどうか、ふさわしいかどうかというのは、別の話ですから。その辺、間違えないでください、ね?」

他人の成功を素直に喜べない人というのも、観ていて面白いです。ある知人が、久しぶりにお世話になった同業のBさんに会うことになりました。知人は仕事で成功したのですが、周囲から「Bさんには、あまり“うまくいっている”と言わない方がいい」とアドバイス(?)をされたそうです。どうしてかというと、Bさんがひがむから、だそうです。成功をねたんで、あげくに関係が悪くなるから、だそうです。それを聞いて、私はBさんにこう言ってあげたくなりました。「どうして心からおめでとうって言ってあげないのですか?心から喜んで、ついでに成功のコツでも聞けばいいじゃないですか?ひがんだところでマイナスばかり、認めることでプラスばかり、なのに。それ、わかりません?」

Aさん、Bさんに共通して言えることは、謙虚さを失ってしまったことのような気がします。へりくだり過ぎて自分らしくなくなるのは良くないとは思います。でもその逆に変なプライドばかりが先行し「オレがオレが!」となってしまうと、こんな風にも本質が失われてしまうのか?と思えてしまいます。Aさんは、ブランド物を差し引いた時の自分という本質と向き合うべきだし、Bさんは、自分より他人の方が多く努力していたという本質と向き合うべきだと思います。それが最も大事なことなのに。

それら「面白い人々」は、付き合い方や距離感を用心しなければならない「面倒な人々」でもあります。人間くさい、と遠ざければそれでいいのですが、でもたまには出向いて行って、涼しい顔でそのお高いお鼻を、ポキッ、とやってやりたくもなります。笑

photo_201503column

↑ページの先頭へ戻る

「それでも私は間違っていない」…?

2015年2月

百人の人間がいれば、百人の考え方があるのだと思います。まったく同じ考え方の人などいるはずもありません。しかし、それでも共通すべき考え方や思いというものは必要で、それがいわゆる「常識」というものです。常識を感じることができ、自己を主張するだけでなく、他者を許容することのできる、協調的なバランスをもった人を「常識的な人間」と呼ぶのだと思います。世の中は、常識的なルールを共有することで成り立っています。他人の喜びを自分の喜びのように感じる能力や、自分の痛みを他人が察してくれるような能力、そういった素晴らしい感性が、そこに生まれてくるものです。

ところが、それを持たない人々というのもいます。彼らは共有すべき常識とは異なる要因を心に持ち続けています。どうしてそのようなことが起こるかといえば、百人いれば百の生い立ちがあり、百の境遇があったわけで、その中で必要な意識が欠如するのは仕方のないことです。それは本人が招いた場合もあるし、本人のせいでない場合もあります。

たとえて言えば「ナッツ姫」です。世襲の色濃い国に生まれて御姫様のように扱われて、意見の違う人間が登場したらすぐさま周囲の力を利用して消すことができました。自分の意のままにならないことなどないのだと生きてきた彼女に「常識的になれ」と言ったところで、「なんで?どうしてあなた方と同じにしなければならないの?」という答えしか返ってこないのでしょう。これはもっともなことだと思います。ある一定以上の力を持った人間には、大方の人が持っている常識は、あてはめる必要がない時がよくあるからです。

しかし、それが問題となった時に、ようやく本人は「常識的な人間」ではなかった、と気づかされます。悲劇なのは、自らが気づくのではなく、周囲の反応から気づかされるのです。その時点でも、未だに自分は悪くないのだと思っている人も多いと思います。それはどうしてかというと、今までその人は、そのやり方でしか生きて来なかったし、それで通用してきたからです。充分な成功をしたし、ほかの誰かに足並みを合わせることなど必要がなかったからです。

また、元プロ野球選手のこんなエピソードがあります。彼は子供の頃からその才能を周囲に認められ、言わば一般の部員とは異なる特権階級でした。まさに特別扱いで、チームメイトの誰もがしてきた用具の後片付けやグラウンドの整備などは一切せず、また自分もそういう扱いを受けることを当然だと考えていました。そしてプロの道に行き、ある程度の活躍をして引退をするわけですが、特権階級におさまっていた野球の世界から去って後、彼には何もなくなっていました。彼から野球を取った時に、彼に残っていたものは、誰一人として共有することのできない、彼だけが持っていた王様の価値観だけだったからです。

例えに出した「ナッツ姫」さんには申し訳ないのですが、環境や風貌や違えど、彼女のように協調して常識を育むことができなかった人というのは、大なり小なり、私たちの日々の周囲に多く存在しています。わざわざ思い出そうと努力しなくても「あの人ほんと身勝手だよなあ…」と感じる人が、パッと何人か浮かぶことと思います。

彼らは、いつか協調的で常識的な世界へやって来ることができるのでしょうか?やって来ることができるとしたなら、失敗したり、挫折したりした時に、いかに現実を(自分を)直視できるかどうかにかかっているのだと思います。自分と自分以外の人々と、どこが違っていたのかを、真摯に直面できる本当に数少ないチャンスです。「それでも私は間違っていない」と言ってしまうのだとしたら、それは残念としか言いようかありません。

photo_201502column

↑ページの先頭へ戻る

今の場所で、今の自分に求められていること。

2015年1月

先日、前途有望の若い同業者と話をしました。彼は転職をしてかねてから望んでいたジャンルに進み、その中でも一流といえるブランドに属して、その能力を発揮しようとしています。

これまでと変わって、彼は「一流ブランド」という重みを背負って、一流のお客様を相手にしています。そんな彼が、先日ぽつりと私に言いました。「お金もってる人って、結局なんでもいいのかなあ…」要するに、彼はいま張り合いを無くしているのです。かつての会社で奮闘した、お客様のライフスタイルを実現する苦悩とか、お客様と一緒になって創り上げていく喜びとか、時にはアクロバティックな発想とか、そういうものが今は必要とされないように感じる、と。その張り合いの無さが、そう呟かせました。彼にとって、以前の、お施主様と共に切磋琢磨する家づくりというスタイルが、とても有意義に思えたのでしょう。

「お金もってる人って、結局なんでもいいのかなあ」…私は「それは違う」ときっぱりと答えました。能力のある人物だけに、それは決して今後も履き違えてはいけないと思い、それからできるだけ丁寧に諭したつもりです。

私は言いました。「一流ブランドと呼ばれるスーツメーカーで、お客様と一緒の目線になって仕立てるようなテーラーが、どこにある? 一流ブランドと呼ばれるレストランで、客を厨房に入れて好みの味付けをさせる店が、どこにある?お客様にそんなことをさせなくても、お客様の求めるサイズやセンスを熟知しているテーラーを、一流って言うんだよ。お客様の好みの微妙な塩加減を熟知しているレストランを、さらにはお客様のその日の体調や天気なんかも計算して塩加減を微妙に変えるレストランを、一流って言うんだよ。お客様から絶対の信頼を得て、お客様が何も言わなくても、お客様が欲しているものを間違いなく提供できるところを、一流ブランドって言うんだよ」

ハリウッドのスターは、一流のレストランで専属のサービスがつきます。エルメスに通い慣れた人は、お店に来た時点で余計なことを悩まないですみます。一流のブランドに勤めるということは、いちいちお客様の要望を言葉で聞かなくとも理解できていなければならないのです。自分のスタイルが確立している一流の人達に、いちいち言葉で伝える負担や、ストレスを感じさせてはならないのです。

彼は「一流ブランド」に属したことの、その重い重い責任感というものを、まだ心底から肌身に感じていないように思えました。お客様が一流ブランドに求めていることの真髄を、これから理解していくのだと思います。一流ブランドとお客様の距離感、あるいは密接感と、以前彼が属した会社のそれとは、種類が異なるものであるということを、認識して欲しいと思いました。

確かに、一流ブランドにやって来る人って、さほどこだわりがない、ように見えます。しかし、それは誤りです。一流ブランドに行ける人は、一流を保つために、日頃から労力を使っています。言わば、その分の見返りを求めてもいい努力をしているので、極端に言えば、簡単な一言で理解してくれるようなところに行くのです。こだわりがないのではなく、持っているこだわりも含めて全て、相手のことを任せられる人だと信用し、託すのです。その信じる思いは絶大なものです。だからこそ「一流ブランド」は、万に一つであっても、その信頼を裏切ってはならないのです。

一流のブランドに属するということ。そこでは「普通ではない」努力が求められます。

photo_201501column

↑ページの先頭へ戻る