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President,s Column | エバー代表のコラム

President's Column | エバーグリーンホーム代表・猪狩裕一の思いをお伝えします。

年別アーカイブ:2016年

もうこれ以上、失いませんように。

2016年12月

エバーグリーンホームは来年の4月をもって満22歳になります。しかし私にとって「22」という数字は、何かネガティブな感覚をはらんだ数字です。22才の頃にネガティブな変化があったので、そのトラウマなのかもしれませんが。そういえば昔「22才の別れ」なんていう歌がありました。私だけでなく、「22」って多くの人に嫌なことが起きるのでしょうかね?「22才の別れ」は皆が知っているものだと思っていましたが、先日30代の人間に言ったら「何ですかそれ?」みたいに返されてしまいました。世代が違いました。笑

「22」という数字にある種の危機感めいた感覚を秘めている私としては、周囲に起るさまざまな出来事についての因果関係を嫌でも感じてしまいます。今年だけでも芸能、社会、政治…多方面でいろいろなことがありましたが、それらをひと言で要約するとしたら「既得権益の崩壊」です。当たり前のことがもはや当たり前ではいられなくなり、変化を求められています。今ある自分にあぐらをかいていたら、あっという間に足元をすくわれる状況です。昨日そこにあって、明日も明後日もそこにあるだろうと思っていたものが、突然に目の前から姿を消します。この感覚は何なのでしょう?

否、ひょっとするとそれは年齢を経た故の出来事なのかもしれません。居酒屋でいつもそこに居るのが当たり前のような旧友が死にました。そういう喪失感は年齢のなせる技なのかもしれません。だからこそもうすぐやって来る「22」という数字に気をつけたくなっているのかもしれません。私は、その今は亡き旧友にはかなさと同様に憤りのような思いも感じています。人間は自分のために生きているのと同じくらい周囲の人間のためにも生きているのですから、自己管理はしなくてはいけないし、自己管理を怠ることは他人思いではなく、自分勝手だ、ということになります。本来は、自分を思って「死にたくない」と思い、他人を思って「死んではいけない」と思わなくてはいけないのだと思います。万策を尽きてではないだけに「なんで死んだんだ、あいつ」という置きどころない感覚を背負っています。いなくなったところで困るとか、私の人生がどうにかなるという死ではありません。ただ、心には、喪失感とか、もっと何とかできなかったのかという憤りのようなものが沈殿しています。それも「22」の呪縛なのだろうか、といぶかってしまいます。。

私としてはできることをやり、これ以上「22」の呪縛がないように努力をするしかない、と思っています。エバーは何とかスケールアップしてこれたことから、責任の構造を分散してきましたが、それも見直す時が来ています。そこに矛盾した既得権益が存在していて、あるいは時代遅れとなった既得権益が摩擦となって、そのことで会社やお施主様にとってのマイナス要因が生まれているかもしれないからです。知らず知らずあぐらをかいているかもしれない自分への戒めと、大切な何かを失うことのないように、気をつけようと思います。その上で先々に事なきを得たのなら、それで良しとします。

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先達、偉大なり。

2016年11月

社員旅行に行ってきました。前回の海外への社員旅行とは趣が異なり、今回は国内。京都と大阪に出かけましたが、慌ただしかったのは変わりありませんでした。まず京都に入り、寺社などを見学してその後大阪に行き、一泊して帰路へ。かなりの弾丸ツアーでした。

京都では東本願寺を見学しました。堀川七条にある西本願寺と相対する東本願寺、通称「おひがしさん」。西本願寺に比べると華やかさは一歩劣りますが、質実剛健でどっしりとした安定感は素晴らしいものです。建築に携わるものとしての目線でみると、やはり細部に至るまで感心させられます。そして、こういったものを成し遂げてきた先達に尊敬の念を抱きます。だってそうですよね、今なら電話一本でコンクリを必要なだけ運んでもらってダーッと流し込めばできてしまうものを、何十人、何百人という人々が大きな石をいくつもいくつも運んで積んだわけです。今なら業者にピッと電話して「何を何本ね」と頼めば済む柱材を、信州の山奥から切り出して、大勢の人々が何日もかけて運んできたわけです。トラックで、じゃないですよ。清水寺だってそうです、楽をしようと思ったらもっと平な場所につくればいい。「清水の舞台」で知られる本堂なんて、崖の上に確か139本だったかのケヤキの柱で支えられています。懸造(かけづくり)と言われる建築技法で、釘を一切使っていません。想像を絶します。

そんな昔に比べて、今は電話でパパッと、ネットでパパッと。まあ楽なこと。

ところで、私は幸いなことに、子供の頃から、ていねいな仕事を理解する感覚がありました。小さなタイルを一つずつていねいに貼った面など、見ていて惚れぼれしたものです。そこには、便利なタイル調のパネルの類には出すことのできない物語があります。どんなにリアルなパネルであっても表現することのできない美しさがあります。その頃はそんな大層なことは考えませんでしたが、幼い心に、作り手の魂が響いていたのだと思います。それは美学となって今の私に続いています。

悠久の労苦の賜物を目の当たりにして後、自分の仕事に帰って、思いました。ああ、日々私が悩んでいることなんて、どんなにか小さなことなのだろうかと。ストレス?昔の人のことを思えば、何がストレスなんだ?と。どうせ悩むのなら、もっと大きなことで、悩んで、力を注ぐようにならないといけない、と目を覚ました次第です。「魂のこもったもの」つくっていかないといけません。

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誰にも損なことは、してはいけない。

2016年10月

今さらですが、建築というのは実にさまざまな工程があります。そしてそれぞれが専門性が高いことから、その個々の工程をこなすエキスパート(職人)が日々入れ替わり立ち替わりでシフトしていきます。あらかたの順番というものは決まっています。最初にすべき工程の前に、3番手の工程のエキスパートが現場で仕事をすることはできません。まだ壁が立っていないのに塗装の職人が来ても意味がありません。床が貼っていないのにシステムキッチンの搬入が行われても置く場所がありません。

大勢いるエキスパートの出入りを管理し家づくりの全体を円滑に進めていくのがディレクター(監督)の大きな仕事です。難しいのは、職人達も常に複数の現場で働いているわけなので、職人個々のスケジュールを過度に尊重してしまうと、工期がいとも簡単に伸び伸びになってしまうことです。懇意にし頼りにしている職人ではあっても、仕事では一線を引いて、時には心を鬼にして、場合によってはきつい言葉を使ってでも、なれあいや甘えを取り払って進めていかないとなりません。そうやっていきながら、常に機転をきかせて、然るべきタイミングで適材を適所にブッキングしていかなければなりません。

特にエバーでの仕事の場合、そこにはディレクションのセンスというものが必要になります。なぜならエバーの家づくりというのは一定ではなく、お施主様のご要望に合わせて多様なブッキングスタイルを求められるからです。A様邸でとても機転のきいたブッキングを行えたとしても、それが同じくB様邸にそっくり利用できるわけではありません。設計も、コストも、仕様も、嗜好も異なる案件で、前回使えた機転がまた使える保証は何もないのです。しかし常に頭をフル回転させて止まる現場をつくらないことが監督の、いや全員の使命です。常に適切なブッキングを行うことは、工期、すなわち工費の節約になります。ベストなブッキング、ベストな選択を行わないことは、お施主様の首を絞める行為であるだけでなく、パフォーマンスを低下させることで自分たちや会社の首を絞め、エキスパートの士気をだらけさせることになります。誰にとってもいいことではないのです。なので、エバーの監督は、明晰であるだけでなく、人間的に優れていながらも、気を抜こうものなら容赦なく刀を抜く勇気さえ持つ、強いコンダクターである資質も必要になります。

そんな監督という職業ですが、やはり人間なので、常に完璧であることはできません。しかし、いくら不完全だからといって、お施主様への損が許されるなんていうのは筋が間違っています。

私はエバーの長として逐一現場の報告を受ける立場にあります。そうした報告の中から、目の前の相手はきちんと考えているか、ベストな判断を導いて来ているかを感じ取ることができます。その人間の努力の手抜きを感じた時、私は段取りの合理的でない部分を指摘し、どこに人間どうしの甘さがあるかを指摘し、時にはコスト試算を行ってその相手に公開します。職人連への適切な指示や段取り、資材の調達方法の合理化、そういったことを自分なりに計算し直すと、だいたいの案件は2パーセントのコスト削減が露呈します。簡単に言えば、そのやり方では会社に2パーセントの損益を与えているということです。そしてそのお鉢は最終的にお施主様に回ってしまうということです。私がそのような試算をしないで済むよう、私は常にスタッフの全員に口癖のように言っています。「考えろ」と。

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好きではないけど漏らしてしまった言葉。

2016年9月

先日テレビで、かつてアイドルとして大人気だった女性が、しみじみと呟いていました。「昔はよかったわあ…」彼女は現在、娘さんから毎日決まった額のお小遣いをもらっているそうです。どうして毎日お小遣いをもらっているのかというと、彼女は昔から、あればあるだけお金を遣ってしまうからだそうです。だから彼女にはまとまった額を渡すことができないのです。それは、羽振りがよかった人気アイドルの頃から根付いてしまった癖(へき)です。それが一生を通しての彼女の人生を形作ってしまいました。湯水のようにお金を使えるような恩恵を得ていた過去。毎日2〜3千円のお小遣いにすがる現在。彼女は「昔はよかったわあ…」と心から嘆いていました。

「昔はよかった…」としみじみ言う人がいます。そういう人の多くは、その元人気アイドルと同じように、今より昔の方が社会からの恩恵に潤っていた人が、現状のしがない自分を嘆いて呟く言葉のように思えます。幸いにもというか不幸にもというか、私の場合は若い頃、世間にもてはやされたということがありません。自分で会社を起こし、最初はたった一人で家づくりの何でもをやってきた叩き上げなので、社会の恩恵で楽をした記憶がありません。だから「昔はよかった…」とは思わずにこれまで生きてきました。

そんな私が、ついに、先日、「昔はよかったなあ…」と思ってしまいました!それはもう、ため息まじりで!ただし、これまで話したニュアンスとは違う、明らかに異なる感慨でしたが。

一代叩き上げの私なので、若い頃はそれはもう何から何までやらなければなりませんでした。お客様と打合せをして、デザインを考えて、プレゼンをして、コスト削減をして、現場の能率を向上させてetc…。今では多くの有能な専門家がまわりにいて分業で成り立っているので、そういうことはなくなりましたが、先日ふと、そういうことの一部始終を自ら俯瞰して取り仕切るという場面に出くわしました。その時に、もう長いこと味わっていないような感覚に久々に出会ったのです。今は多くのスタッフがいるので、逆にそれを表立ってやってしまうのはスタッフの仕事を奪うことになり、場合によっては足を引っ張ることにも成りかねないので、立場上控えるべきことです。しかし、その時はそうならざるを得ない状況でした。

そこには、若い頃のエネルギッシュな躍動がありました。やり終えた後の満足感が半端なくて、また懐かしいものにも思えました。そしてこう思ってしまったのです、「昔はよかったなあ…」と。課題と解決の応酬、その繰り返しだったかつての自分に一瞬でも戻った気がして、そのことがとてもキラキラして見えました。今とは違う感覚、これは何だろう?きっと「無我夢中」なんだと思います。人生の中の最も濃密だった頃に戻ったのだと思います。

若い頃の「無我夢中」だった感覚とは違って、今の私にはやるべきことというのが、もちろんちゃんと沢山あります。だから、今が嘆かわしくて昔を振り返っているというのとは違います。そして、やっぱり私はものをつくることが大好きな、ものをつくることが本業の人間だということを、身に染みて実感しました。それをまざまざと知らされた「昔はよかったなあ…」のため息だったのでした。

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野心家と臆病者、うまくいくのはどっち?

2016年8月

東京都知事選で自民党はまったくの大恥をかきました。そのやり口というのが、かつての一大政党のままだったのでしょう、都民から大きな反感を買いましたね。家族であっても支援者以外に投票することを禁ず、なんていう御触れは、昔の偉大な自民党様の時代だったら、城壁の外に漏れ出す情報ではなかったのでしょう。しかし今は違います。「時代錯誤だ、失敗したな」と思いました。そう、失敗するのには、かならず理由があるものです。

ところで、私の場合、うまくいっている時、「うまくいっているぞ」という感覚がほとんどありません。どうしてだろう?と不思議に思います。そもそも、うまくいっている時も、うまくいっているなんて思っていないのです。疑心暗鬼な性格なので。うまくいっているのには、間違いなく何かの理由があるはずで、できれば、それをうまくいっている時に考えることがしたいのです。しかし、うまくいっていると思うことが少ないから、その理由を考えるタイミングがない、という…。

しかし、逆にうまくいっていない時、私を含めて誰もがでしょうが、「どうしていけないんだろう?」と考えます。流れに乗っていないのは何が原因なのだろう、と。そういう時、人は大抵うまくいった人をお手本にして、その人の何かを取り入れたり、真似をしたりして、流れを良い方向に変えようと努力してみたりします。

うまくいっていない時に他人の良い部分を取り入れる。これは誰もがやることですが、実は何も学んでいないことが多い気がします。例えて言うなら、元気な時には常に暴飲暴食をしているのに、病気になったら反省して健康食に切り替える、その繰り返しのようなものです。第一、成功している人と同じことをしてうまくいくのなら、そんな簡単なことはかりません。コルビュジェのメガネをかけてコルビュジェになれるのなら、どんなに楽なことか。人はそれぞれ、うまくいく理由は、違うものです。

思い起こせば、私にはある習慣がありました。それは、うまくいっている時、うまくいっていない時に関わらず、失敗した人はどうして失敗したのかを考える癖があることです。失敗した人には、その人なりの千差万別の環境があって、その中でうまくいきませんでした。それを自分のことのように想像しては、失敗の原因を解明したりします。このことは、いつか自分が失敗しそうになった時に向けての重要なデータベースになってくれます。「今回の件は、あの人のあの時のケースと一緒だな…」なんて考えることができます。それが思い当たれば、難を逃れる可能性が非常に高まります。政界の誰か、財界の誰か、タレントの誰か、ドラマの中の誰か…イメージできる対象はたくさんいます。このトレーニングはぜひおすすめです。

「人のふり見て我がふりなおせ」と言います。それは成功した人をなぞることではなく、失敗した人をなぞることの方が大切であるように思います。成功しよう、と思う野心家より、失敗しないようにしよう、と思う臆病者の方が、成功するのかもしれません。

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あの国が今回しようとしていること。

2016年7月

英国がEU(欧州連合)離脱の是非を問う国民投票で、僅差で離脱指示派が勝利しました。残留指示派からは再投票の声が上がっていますが、まずはEUから脱退することが現時点での結論になりました。

離脱指示派は「EU加盟しているから加盟国の移民がどんどんやって来て自分たちの仕事を奪っているんだ!彼らが安い賃金で働くもんだから自分たちの仕事がなくなるんだー!」と言っています。「だから加盟をやめたら自分たちに仕事が帰ってくるし、国だって経済レベルが上がるんだ!」と言っています。これは何だかひがみのようにも聞こえますが、「そーだその通り!」という、同じ気持ちの人々が半数以上もいたもんだから、その言い分が今回勝ちました。

そして、投票が済んでから、多くの人が慌てふためいてしまいました。「いやいやちょっと待て…」と。よくよく考えてみたら、うちら市場から孤立しちゃうじゃん…グローバル企業とかみんな出て行っちゃうよね?…労働力も出て行っちゃうでしょ、競争力なくなるよ…そうしたら生産効率激減、相手にもされなくなるし…かの大英帝国がどんどん衰退?まじか?どうする?…これって部外者の私でさえ想像できることなのに、実際当事者の英国の方々は、半数の人々が想像できなかったのでしょうか?感情論が勝ってしまったのでしょうか?

英国はかつて産業革命を起こした国であり、歴史上、世界の資本主義を主導してきた重要な国でした。かつてしたお勉強をおさらいしますと、資本とは何か?社会に貨幣を投下し、投下された貨幣が社会を運動してより大きな貨幣となって回収される場合、この貨幣のことを「資本」と呼びます。すなわち資本主義が成立するためには、商品の生産と交換が一般化していること、そして自己の労働力を商品化する賃金労働者が存在することが必須です。はい、そういうことです。賃金労働の主役を自分たちに戻したところで、社会に貨幣を投下する人がいなくなってしまったら、社会は運動しないし、大きな貨幣にして回収することもできなくなるわけです。働き口がなくなったのはお前らのせいだ!だからEU離脱!…しかしそれだけではない。資本からも離脱してしまうことになります。最近は「資本主義の終焉」などとよく言われていますが、資本主義こそがこれまでずっと社会の軸だったものだから、あまりに巨大過ぎて終わり方というのも多様なのかもしれません。

英国のEU離脱は経済指標では「300兆円の損失」などと言われています。何なのでしょうね、この「300兆円の損失」って(笑) 300兆円なんて見たことがないし、この損失という言葉も、経済という私には想像できないものさしなので、どんな風に損失するのかがまるで想像できません。燃えた、とか、落とした、とか、盗まれた、とかなら「あー、損失したんだねー、気の毒にねー」と思えるのですが、ましてや事が300兆円ともなると…できるリアクションは「ふ〜ん」くらいなもんです。

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心を痛めています。自分のせいではないにしろ。

2016年6月

数カ月前から触れておりますが、今年は地引網が中止です。お施主様の皆様、親しい関係者の皆様、誠に申し訳ございません。エバーといえばその代名詞でもあった夏の恒例イベント。私も1年ぶりにお会いする笑顔を毎年心待ちにしておりました。子供さんたちの成長が楽しみでした。本当に残念です。またいつか、仮に地引網でなくとも、皆様と集い笑い合える何かができればと思っております。

そのことは言葉だけでなく、本当にそう思っていて、それが私の性分なのでしょう「ああ、みんなに申し訳ないなあ…」と毎日のように思ってしまいます。楽しいことが根っから好きであるし、もちろん私には直接届かなくとも「なーんだ今年はないのか、つまんないな」と思っている方々の心が想像できてしまいます。

相手の気持ちを想像するということは、辛い時もありますがだからこそ重要だと思います。この人はいったい私に何を期待しているのだろう?私は何をすればその気持ちにこたえることができるのだろう?と考えることです。あるいは、私は何をしてはいけないのだろう?と考えることも同じくらい重要です。

先日、友人がこんなことを言っていました。「どんなに美味しいものを出す店であっても、お客さんの気持ちを想像しない店は駄目だね」。まったくその通りだと思いました。以前このコラムで一流店のことを書きましたが、一流店とは値段に関係なく、それができるかどうかです。純粋なプライベートで来ている客がいて、その方とビジネスライクなお付き合いをしている別の客が来たとしたら、両者がなるべく接しないようにもてなす主人を知っています。実に粋であるし、真のプロだと感じます。それとは逆に、別に聞いてもいないのに「そういえばこないだお友達の○○さん、○○さんといらっしゃいましたよ」なんてご丁寧に教えてくれる主人もいます。

その主人としては相手とのコミュニケーションを深めるために教えてくれたのだと思います。しかし、それって同じように「こないだ猪狩さん、○○さんといらっしゃいましたよ」と誰かに教えているということです。親密な関係であったとしても、他の客のプライベートな情報は流すというのは、してはいけないこととして重要です。

一を聞いて十を知る、とはよく言ったものです。同じように、一を感じて十を感じる、ことが大事だと思います。仕事においてだけの問題ではなく、全ての人間関係において。生きている以上、期待にこたえられる人間になりたいと思うことが大切です。「みんなに申し訳ない」と思う私のうしろめたい気持ちは辛いものですが、でもそれがあるから私という人間はいくらかまともなのだと思っています。

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言葉にならない大切なもの。

2016年5月

日本語は、世界中の言語の中で最も難しい言葉だといわれています。「すみません」というのはある時には「申し訳ありません」だったり、ある時には「ちょっとよろしいですか?」だったり、ある時には「どうも恐縮です」だったり、一つの言葉でもいくつかの意味を持つのだから厄介です。私たちはふだんからこの使い分けを学習しているわけですが、言葉が多用な意味を持つということは多分に曖昧さを秘めているわけで、それがすなわち国民性のようにも思います。その点、英語のようなものは日本語ほど曖昧ではありません。抒情的でないから奥行きがないとも感じますが、日本語ほど誤解を与えることもありません。言葉を大切に使うことはとても重要です。ただ、だからといって言葉だけに依存することも危険です。ただ一方的に演説するだけならいいだけですが、私たちは会話をしなければならず、そこでは互いを理解し合うことが必要だからです。

先日ある人物との間でこんなやりとりがありました。
ー その人「このエバーのパンフレットどこに置いておきましょうか?」
ー 私「うーん…入口のこの辺りでいいんじゃない?」
ー その人「だけどこの辺りだと雨が降ったら濡れてしまうんです」
ー 私「あ、そう…じゃあ雨が降ったら中に入れればいいんじゃない?」
ー その人「はい、でも中にいると雨が降っても気づかないんです、どうしましょう?」
ー 私「…じゃあ別の場所に置いたら?」その人「でもさっき猪狩さん、この辺りに置いたら?って…」
ー 私「…」

そう、私、「この辺りに置いて」と指示を出したわけではないのです。なのにその人は「指示された」と受け取ったのです。そういうこと、私、いちいち細かいタイプではないし、その人がいいと思った場所に置けばそれでよかったわけです。まあ聞かれたから「ここらへんでいいんじゃない?」と言ったまでで、「ここらへん」じゃなくても別によそでもかまわないわけです。なんでしょう、このチグハグなコミュニケーション。言葉が足りないわけでも、言葉を誤って解釈されたわけでもないのですが、まるで噛み合っていませんでした。その人物と別れてから、私はこう思いました「あれ?なんか俺が悪かったことになってない?」(笑)。

この程度なら大したことにはなりません。しかしそれがお施主様とのやりとりとなったら、噛み合っていないことはそれはもう命取りになります。我々はよくお客様に「あとは任せます」と言われます。しかしこの言葉にも実はたくさんの異なる意味がこめられています。「ここから先の細かい話はいちいちチェックしてたら面倒なので任せます」という意味の時もあれば、「ここから先は挑戦も含めて貴方の手腕が見たいから任せます」という意味の時もあります。結局、そのどちらも完全に任されたわけではなく、必ずお施主様の了解が今後も必要になってくるので、実際は「任された」わけではないのです。それを言葉だけを鵜呑みにして、お施主様のことを理解していると過信して、「任された」という言葉だけを頼りにして勝手してしまうと、でき上がってからお施主様が「あれ?任せるとは言ったけど、何これ?」みたいになっては大変です。時すでに遅し、せっかくの信用もその時点で地に落ちます。

一流の医者というのは、素人には余計だと思われる質問や、病気とは無関係に思えるような質問をします。そしてその答えから隠れている原因や病を発見したりします。それは、患者のもつ言葉というのが万能ではない、という前提に立っているからです。私たちは難しい言語を操る日本人ですが、それでも言葉だけで互いを理解し合うことは難しい。そういう観点で、私たちは言葉にならない、言葉にできないお施主様の思いというのを理解していかないといけないと思っています。仕草、表情、間、性格、そういったものの中にある微かな意志を見逃さないようにしていこうと意識しています。

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エバーがスタッフを多く抱える理由。

2016年4月

先日、不思議な出来事がありました。エバーとビジネスパートナーになりたいというお気持ちで、よくセールスに訪れてくれた企業がございました。こちらとしては相手して話しを聞くだけでも貴重な業務時間をさくし、かといってせっかく足を運んでくれるのだから邪険にもできない。向こうはこちらに好意があっての訪問ですから「もう来なくていいですよ」なんていうことは人でなしみたいでできない。どこの会社でもよくあるようなことではあります。のらりくらりとかわしておりました。そうしたらある日突然、向こうの方から言ってきたのです。「うちの社の方針でもう御社とはお付き合いしないことになりました。」…はあ?…っていう感じです。私のブログでも少し触れましたが、だんだん腹が立ってきました(笑)。たいして好きでもない人がいて、好意をもって接してくるので邪険にせず話し相手になっていたら、ある日突然「もうあなたとは話したくない」と…「え?え?なんでこっちがふられた事になってんの?」という…。こうしてたとえてみるとコントみたいで面白いんですけどね。

方針だかコンプライアンスだか知りませんが、大きな会社ほどちょっとしたきっかけで相手企業の評価ラインが変わるようです。それって、相手の業績が下がったから、とかいう明白なことならまだしも、必ずしもそういうことではないようなのですね。第一、エバーは業績落ちていないですから。そういうことを告げなければならないような対外的な義務があるのでしょうね(あるいはそれを相手に告げるという仕事を何かの社内事情で無理やりつくっている…?)。おかげで、好きでもない人にふられてしまいました。かっこわるいです(笑)。

さて、そんなエバーですが4月になり22期目を迎えました。業績は至極安定しています。会社の規模にしては多くの優秀なスタッフを抱え充実の日々を送っています。よく「エバーさんはスタッフが多いですね」と言われるのですが、これにはちゃんと意味があります。

お弁当屋さんに、見た目が同じような1000円のお弁当と700円のお弁当があるとします。その300円の違いは何かというと、1000円の方は、いいお米を使っている、とか、仕出しではなく厨房で焼き物をていねいに焼いている、とか、地場の有機野菜である、とか、いろいろ理由があるでしょう。しかし中身が一緒で値段に差をつけられるわけではないので、その差には理由があります。そこで買い手がどちらを選ぶのかは、考え方次第です。ある人は「それだけの違いなら300円安い方がいい」と思うし、ある人は「そんなに変わるのなら300円高い方にする」と思います。300円という値段の差を「それだけの違い」と取るか、「そんなに変わる」と取るかは、その人が何を求めているかのバランスの違いです。

エバーは年間25棟をつくるのがせいいっぱいの会社です。そして、会社の規模の小ささにしては大きい比率でスタッフを内部に抱えています。本来であればもっと外注のスタッフを多く起用するべきなのかもしれません。その方が会社を維持していくためのコストが下がり、利益が上がるからです。しかし、そこには間違いなく大きな弊害があります。だからそれができません。

先ほどのお弁当の例でいえば、仕出しを増やして自分たちの労力を減らせば、お弁当はもっとたくさんの量が出せるし、そのことで値段も下げることができます。そのことは、「それだけの違いなら300円安い方がいい」というお客様の満足は得られることはできます。しかし、そのことで生まれる質の低下には目をつぶらざるを得ません。「ていねいにつくる」「しっかりとつくる」ということは、なかなか派手なものではないのですが、そこを大事にしようとすると、外部のスタッフに仕事を投げるのでは当然ながら目が行き届かない部分がどんどん増えてしまうし、「ま、こんなもんでいいか」という妥協もしなくてはならなくなってしまいます。一人ひとりがエバーという看板のもとで責任を感じながら仕事をしていくこと、それが質の向上につながり、その結果として、エバーの家は、700円でなく1000円のお弁当になる、ということです。その300円の差を「そんなに変わるのなら300円高い方にする」と感じてくださることができるお客様が、エバーのお施主様になってくださるのでしょう。

もちろん企業努力は当たり前で(再三に当コラムでお話している通り)コスト削減は日々考え実践しています。そういうせめぎあいの中で、エバーが少しでも良い家をつくり続けてきた成果が、現在の顧客満足度だと思っています。1000円のお弁当と700円のお弁当、どちらにするか?どちらもそれは間違いではありません。
ただし、どうしてもこだわりや哲学という点で、私たちエバーには「できない競争」というのもあります。

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関係、それはいともたやすく崩れる。

2016年3月

必要最低限のルールというものがあります。これだけを守っていれば大丈夫というものでもありませんが、これだけは「何があっても守らなければならない」し「破ったら絶対にペナルティが下る」というもの。それが必要最低限のルールです。しかしそうは言っても、人それぞれの資質や経験値の違いなどから、その必要最低限のルールに気づかなかったり、気づいていたとしても軽んじてしまったりします。そして、その必要最低限のルールを犯してしまった時、ようやく「自分は必要最低限のルールを犯してしまった」と気づくものです。

そうならないように、人は、その必要最低限のルールというものを常に意識していかないと、簡単に間違いを起こしてしまいます。間違いばかりを起こしていると、その人はやがて、必要最低限のルールすら知らない非常識な人間、信頼をおくことができない人間、として世間に位置付けられてしまいます。

世の中には、全ての関係に必要最低限のルールがあります。夫婦であれば、収入をもたらす人を敬うこと、というのも一つのルールです。妻が夫に対して「給料なんて毎月持って来て当たり前」と考えるのは、ルール違反です。同様に「妻が自分に食事を作るのは当たり前」と考えることもルール違反です。関係において、感謝の心を失くした時点で簡単にバランスは崩れ、大切だったルールというものを意味のないものにしていまいます。

また、仕事であれば、雇われる側が雇う側に対して「今までもそうだったのだから、これからもあなたが私に仕事を出すのは当たり前」という意思表示をしたら、間違いなく必要最低限のルール違反です。雇う側が雇われる側よりも偉いと言っている訳では決してありません。相手のやっていることに感謝の気持ちを感じなくなれば、先ほどの夫婦の話のように、今までの関係なんて本当にあっけなく絶たれてしまうものなのです。それは、どんなに雇われる側の経験や技術が素晴らしかろうと、雇う側との関係は絶たれます。どんなにできる人であろうと、感謝の気持ちを失ってしまったら、もうその人とは仕事はしたくなくなってしまうものです。

必要最低限のルール。それは、相手の立場や役割をきちんと理解し、時間の経過と共に履き違えたりしないこと。相手に甘えず、なあなあにならないこと。けじめを失わないことです。

甘えが生じた時点で、どんなに強固に見える関係であっても、いとも簡単に壊れます。私たちは普段の振る舞いからして、常に「相手に甘えていないか」を注意していかなければなりません。

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やさしさの欠如。

2016年2月

時間が経つのがとても速く感じます。今年もあったいう間にひと月半が過ぎました。子供の頃よりも圧倒的に速く感じるのは何故でしょう?次の楽しい出来事があって、その日が来るまでが長く感じたからでしょうか?そんなことの繰り返しだったから、いつも何かを「待ち遠しい」と感じていたからですかね?楽しいお正月が終わってしまった…次のお正月まで一年もある…一年…一年…なんて遠い未来なんだ…。幸せだったですね(笑)

たったひと月半ですが、今年になってからマスコミはニュースの花盛りです。Sさんの解散騒動、Bさんの不倫問題、Kさんのクスリ事件、政界ではAさんの賄賂疑惑…。まるで毎日のように悪者が生まれては、テレビやネットで万人によってこてんぱんに叩かれています。それはもう、再起不能なまでに。皆で憶測を楽しんで、いつか飽きたらポイ捨てされます。そして次の新鮮なネタで同じことの繰り返し。そういうことって昔は床屋で待っている間に見かける週刊誌程度の騒ぎだったような気がするんですけど。

有名人がやっていることの是非など問うつもりはありません。しかしそこには共通したものがあります。それは「やさしさの欠如」です。その人達の行いが、他人へのやさしさや慈しみまで想像することができていない点です。不倫がいけないことであるのはいうまでもありませんが、芸能人ともなると事のスケールが異なります。自分や相手の身の回りの問題だけで済むはずがなく、所属事務所、テレビ・ラジオ局、レコード・音楽配信会社、広告クライアントなど、それこそ多大なジャンルに渡って社会的な損害を与えてしまうからです。迷惑のかけ過ぎです。そこまでしてするような価値のある不倫など世の中にはないはずです。一斉を風靡した球界の大スターが落ちぶれたからといって、それがどんな挫折的な感情だったからといって、クスリをやっていいわけがありません。
世の中にはもっと苦労しているのに注目されない人や、夢に向かってひたむきに生きているけど叶わない人がたくさんいます。それこそ私たち皆がそんなようなものです。生きたいのに、やりたいことができずにいるのに、期限が迫っている人だってたくさんいます。それでもがんばらなければならないのが人間です。
それなのに、いっぱしの大スターにもなれたのに、最も身近な妻や子供たちのことすら放棄してクスリに手を出すなど、実に多くの人を、世の中を、馬鹿にしています。

私たちはふだん「自分がこう言ったら相手は何と思うだろう?」とか「こういうことをしたら周囲はどんな気持ちになるのだろう?」と、身の回りの人達の気持ちを想像しながら、やったりやらなかったり、言ったり言わなかったり、時には勇気を出したり、時にはその勇気を引っ込めたりして生きています。自分だけのことを考えて行動をするのはいけないことです。
そして、ある程度の年齢になったならば、むしろ身近な周囲だけでなく、広く社会を対象にして、やっていいこととやってはいけないことの分別を持っていきます。そうやって私たちは個々に成長していかなければならないのに、社会はおろか、未だ身近な周囲にすらやさしくなれず、ひたすら迷惑ばかりをかけています。人としての成長を止めてしまったのは、誰あろうその人です。

東北の震災の時、日本中が混乱しました。しかし大方の人達は「この混乱を鎮めるのは社会の一員たる自分の業だ」と自らをさらに律しました。せめて自分たちが困らない程度のものは手に入れよう、そしてそれ以外はみんなで分かち合おう、と努めました。
それなのに、一部の人々は、自分達だけが困らないようにと食糧やガソリンを買い締めて、したり顔をしていました。
私たちは、身近で見かけたそういう人物達に、一生レッテルを貼り続けます。「もはや関わりたくない奴」と。

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敗者にこそ美学がある。

2016年1月

新国立競技場のデザインが決まりましたね。蓋を開けたら、「和の大家」隈研吾氏と、同じく世界的建築家である伊東豊雄氏の一騎打ち、頂上決戦といった風でした。結果は僅差で隈さんに軍配が上がったわけですが、正直、今回は私、どちらに決まっても問題ないという印象でした。自転車のヘルメットみたいなザハ案よりはどちらもはるかに良いと思った次第です。しかし“木と緑の”新国立競技場なんて、期待する一方で、未知なる部分も多く、気になります。なんせそこに大勢の観客を招き入れるわけですからね。どんな構造をしているのでしょう。相当な強度が必要なはずです。経年で取り替えはきくのだろうか。今後の進展が期待されます。今回は前回に比べてよい勝負だったのではないでしょうか。

ただ、その後が残念でした。僅差で負けた側が、コンセプト、採点、デザイン等すべてに対して批判的な発言をしたのです。とりわけデザインについては「一見かたちは違うがザハ案と全く同じ」と、悪意あるコメントを残しました。そして共鳴するようにザハ側も「似ている」と言い出す始末。がっかりです。

この「がっかり」感は、建築家のはしくれとして、とか、専門的な観点から、という意味での「がっかり」とは違います。単に「みっともないなあ…」と思っただけです。何故って、「コンペ」はケンカではないからです。終わってからも相手を罵るものではありません。真摯に結果を受け入れるだけです。採用されるには採用されるなりの理由があり、採用されなかったのには採用されなかったなりの理由があった、それだけのことです。それなのに「そっちが採用されるのはおかしい!第一パクリじゃないか!」とがなりたてるなんて、実にみっともない。もしも明らかな模倣があったとしたら、第三者がそれを取り上げるならいいでしょう。しかし、それを負けた本人が言ったら、ただの負け惜しみにしか聞こえません。

人の度量というのは、負けた時に顕著にあらわれるようです。そういう時こそ、自分のいたらなさを素直に認めて、勝者を讃えるべきだと思います。第一、勝者にエールを送れない敗者なんて、「みっともない」の代表です。「本当は俺が作ったものの方が優れてるのに…」それは、仲のいい者達に囲まれた酒の席だけにしましょう。

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