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President,s Column | エバー代表のコラム

President's Column | エバーグリーンホーム代表・猪狩裕一の思いをお伝えします。

年別アーカイブ:2017年

エバーにリピートしてくださる理由。

2017年8月

茅ヶ崎駅前「鮨と酒 静」の新装開店に際してバックアップさせていただいております。その中でうれしく感じたことがありました。皆さん、よくある建築関係の社長にありがちな(笑)道楽のような上ついた感覚で私が「静」に尽力しているわけではない、と実感なさってくれていることです。

とかく鮨屋というのは一流であるほど酒に力をいれていないことを、皆さん実感されていることと思います。それは一様に、うちには鮨を食いに来てくれればそれでいい、という自信の表れなのですが、それもわかります。ただ、鮨だけでなく日本料理にも精通している「静」の大将だけに、それに合う一流の日本酒を供する、ということにも手が抜けないのです。握りや料理の腕はさることながら、訪れた人は「ここにこんな銘柄があるとは」と二ヤリとしてくださるようです。日本酒をご存知のお客様は「セレクトのセンスが素晴らしい」と感じてくださるようです。そういう噂は私とは関係のないところで広がって行っているので、大将の力に感服すると共に、私もうれしく思っています。

大将は握りは当然のことながら、全ての裏方の仕込みについても一切手を抜きません。そうした手仕事の素晴らしさは、決して自慢したりひけらかしたりするものではないと大将は思っています。わかる人にわかればいい、と粋を貫くことが粋なのだと。やたらと大袈裟な口上を述べる店もありますが、そういうのは野暮ですから。大事なことだけひと言ふた言、申し上げればいい。そういうものです。

ものを作る仕事の理想は手仕事でしょう。大量生産品には大量生産品なりのいいところがありますが、一つ一つ作っていくものには大量生産品にはない魅力があります。どちらを選ぶのかは人それぞれのこだわりがあります。それに、その時々でどちらを選ぶのかも人それぞれです。家をつくる時も、全てを手仕事にしたい人もいれば、全て大量生産品でいいという人もいるでしょう。どちらも間違いではないと思います。そして、たいていはその間のさじ加減がどれくらいかということでしょうね。ここは絶対にこだわりたい、だけどこういうところは量産品でかまわない、と、そういうさじ加減です。前回のコラムでも申し上げた通り、良いものを求めたら値段は高くなってしまうというのは原理なので、そのバランスはその人の経済状況にも大きく左右されます。制約の中でどれだけ手仕事のような味のある箇所を手に入れることができるか、家づくりとは常にそういうものです。

かつての住宅というのは非常にわかりやすかったのだと思います。今ほど量産品が豊かでなく、手仕事の度合いが表面に出ていました。ああ、ずいぶんと凝った家だ。あちらの家もこだわりを感じるけれど、こっちと比べると割り切った部分が多いな。そんな感じで。それに比べると今は大量生産品の使い分けが容易なので、どのお宅もそこそこ素敵に見えるし、その反面、画一的にもなってしまいました。

幸いなことに、エバーで家を建てたことのあるお施主様は、次にまた家を建てる機会になっても、エバーを選択してくださいます。その理由の一つは、いちどお願いしたのだから頼みやすいし安心できる、というのがまずあるでしょう。しかし肝心なのはそこではなく、エバーの家づくりに一度触れ、その時に感じた融通の良さとか、合理性とか、足し算や引き算の明解さのような姿勢が印象として残っていて、そのことで再度ご依頼くださるのだと思います。経済的なバランスの中で、どこを優先するか、そのためにどの部分のコストをスリムにしていくか、なおかつ全体としての満足度を下げない努力を、一度は身をもって感じてくださっているからなのだと思います。

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家。人。店。バランスです。

2017年7月

手間暇をかけて、丹精込めて作られたお宅は、やはり随所に素晴らしさを感じます。小さな蝶番ひとつに作り手と施主の双方の愛情が伝わってくるようです。そういうお宅にお邪魔する機会があると、細かな部分に「素晴らしい…」と言葉にならない溜め息を漏らしてしまいます。

当然ながらそれは愛情さえあれば作れるわけではなく、手間暇に対する費用がかかるわけで、施工費は高くなるでしょう。しかし、高いものは良い、と言っているわけではなく、良いものは高くなってしまう、ということです。そして、その程度がさりげない、奥ゆかしいと、センスがいいお宅となります。皆さんもお有りでしょう、どんなに素晴らしいお宅でも、これってやり過ぎじゃない?、なんて思うことがあるはずです。それは、訪れる人に見せるための手間暇が過剰なのでしょうね。センスのいい施主は、もっと奥ゆかしく自己を満足させています。暮らす人優先のこだわりが、その家を素敵にするのだと思います。

私はといえば、もっとこう…合理的に頭ができているんでしょう。全部が全部オリジナルである必要などないと思っています。既成品をまったく否定していません。オーダーメイドが素晴らしいように、レディメイドにはレディメイドのいいところがあります。持論として、家って、何もお金をかけられるだけかければ素晴らしい、というものではないと思うからです。ここはこだわりたい、でもここでないところは既成品でかまわない、そのバランスが高次元でなされている家が、私にとってはとても魅力的な家なんだと思います。バランスという感覚が、私にとって何かにつけ大事なんだと思います。

話は変わりますが、私がかねてから足しげく通っていた浜見平団地の鮨の名店「静(しずか)」が、団地の建て替えをきっかけに茅ヶ崎の駅前に移転し、もうすぐ新装開店します。私は性来、どんなに美味しい店でも、高級店でも、客である私が店主の前で委縮してしまうような、そういった敷居の高さというのは好きではありません。第一、緊張しながら食べたって美味しくも何ともないですから。美味しいものがあって、肩の力を抜いてそれが楽しめて、いつ行っても期待に負けないこと、それがいいお店だと思っています。それもまた、高次元でバランスがいい、そのひとつです。「静(しずか)」はそんな鮨屋です。カウンターだけの小さなお店ですが、大将の腕前はもちろん、日本酒がお好きな方なら余計に楽しめるお店だと思いますので、ぜひ一度足をお運びいただければと思います。

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過剰、それがいつしか必然となる。

2017年6月

新築の棟数が減っていることから、世間の建築会社はリフォームの比重を増やすという方向に移行しているようです。そんな流れですが、エバーは新築とリフォームの比重を変えることはしません。リフォームも承りますが、 エバーはあくまでも新築が主流です。そういった流れの中で常に適正価格を遵守していこうと思います。先日、某他社のリフォーム事情を見知って驚きました。同じ内容でエバーの倍近いリフォーム料を取っているということです。エバーで300万円のリフォームがその会社では600万円だというのです。素材選びや何やらでオプションを乗せていく手法なのかもしれませんが、それにしても…いくら何でもリフォームで取り過ぎなのでは?と思いました。失礼なことを承知で言いますが、頼む方も頼む方だと思います。それで「2万円ほどお安くさせていただきます」とか言われてご満悦になっているのであれば、それはまんまと術中にはまっているということです。過剰なことは決してよくない、と私は思います。すなわちそれがエバーの思想です。

建築過剰ということでもう一つお話をしたいと思います。30年前と現在とで何がどう変わっているか、という話です。たとえば、RC造の鉄筋コンクリートの素材量。現在は30年前の倍の量を必要としているんですよ。これは30年前がいかに粗末だったか、という話ではありません。むしろその逆です。たかだか30年前は今の量の半分で済んでいたし、かかる費用も今ほでではなかった、ということです。量が増えたことで地震に対して堅牢になったとは言えるのでしょうが、だからといってそれは必要、なのか?そこに過剰はないのか?ということです。先日の東北大震災でも実証されたように、建物は堅牢過剰にすると外部からの力を上手に逃がすという力が衰えてしまい、そこに弱点が発生します。受ける力を真っ向から受け止める前提で、力を逃がすという安全性を排除していまうことは、そもそも双方の物の見方の角度が違います。家が丈夫であることはもちろん大切なことですが、だからといって「丈夫に!もっと丈夫に!」と、たいそうな基礎工事に大金をはたくというのは、経済性の面とのバランス論で考えると良いこととは言えません。お金持ちでなくとも大丈夫な家を建てる権利はあります。必要な材料を軒並み増やしていくというのは、これは違うのではないかと思うのです。

三権分立、ではありませんが、構造・設計・デザインというのは互いに不可侵であるのが前提です。それぞれが独立した権限を持っていなければならず、いわんやデザイン側の人間が構造側の人間に注文をつけるようなことなどナンセンスです。この独立性があるから建築物の安全性や快適性は健全に保たれるわけです。が、しかし!「そ、そんなに、過剰にしなければいけないのか?」とも感じます。何かにつけて「安全性」とか「環境」とかのキーワードを見つけたり持ち出して来たりしては人々の不安ばかりを煽り、必要のないものまで必要だと思わせているのではないか?と穿ってしまいます。30年くらい前、それは1980年代です。つい最近です。その頃の家って、そんなにもろいものだったでしょうか?

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地元鎌倉民に愛される施設を。

2017年5月

私が生まれ育つ湘南は地域によってさまざまな特色があります。鎌倉、逗子、葉山、藤沢、茅ヶ崎…海でつながっているのに、街の風景はそれぞれ異なる個性があり、そこに暮らす人も「あの街っぽいな」などと思えるような違いがあります。人も風景もその地域らしい顔がある、それが湘南の魅力なのかもしれません。

エバーは湘南エリアを広域でカバーしています。私の地元である茅ヶ崎をはじめ、湘南のあらゆる場所でお声を頂戴しています。とくにもともとが茅ヶ崎生まれである私には、随所に馴染みがあるのは当然といえば当然です。

中でも鎌倉は他の地域にはない特別な個性があります。八幡宮、小町通り、由比ガ浜の商店街や長谷の界隈はいつも観光客で賑わい、外国からのツーリストも観光リストから外せないのでしょう、さまざまな国から日本の文化に触れようと訪れてきます。また駅から離れた閑静な住宅地にも名の知れた寺社が点在している様は、歴史とモダンな暮らしが共存している感覚で、そういうのは他の湘南の地域にはありません。鎌倉には私の多くの友人知人、仲のよいお施主様がいます。とても素敵な方々ばかりです。

そんな鎌倉に、今回縁あってエバーが土地を購入しました。数年前まで御成通り商店街に広めの店舗跡地があったのを地元の方はご存知でしょう。その土地をエバーが購入し、そこで建築を行うプロジェクトを始動いたします。

御成通りは小町通りとは異なり、観光客向けというよりむしろ地元鎌倉民のための消費エリアといえます。駅から由比ガ浜方面に暮らす人にとっては生活道路でもあります。地元に密着した匂いがあり、ほのぼのとした感覚があり、私もそれを大事にしていきたいと考えています。仮にテナントさんが入ってもらうような商業施設をつくったとしても、小町通りとはコンセプトの異なる地元民に愛されるような拠点にできれば何よりです。

とくに鎌倉の皆様にとっては動向が気になることと思われます。進展状況は今後このHPでも報告させていただきますので、楽しみになさっていただければ幸いです。

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家づくりはベストパートナーを見つけることから。

2017年4月

建築屋にも、組織や個人それぞれで得手が異なります。他社が得意なことをエバーに求められても難しいこともあるし、逆にエバーが得意なことを他社に求めても難しいことがあります。それは組織の社風とか手法の違いとか、個人なら主義や性格の違いという、そういった世にあふれる単純なことなのですが、それは家を建てる側のお客様の側に立つと非常に見分けにくいところです。なので、家を建てようと思った折には、できる限り多くの建築屋に会い、じかに話をしてみて、なるべくご自身の意識と近しい、心から意気投合できる相手を選んだ方がいいと思います。

たとえば、ヤマダさんという方がAという会社に家づくりを依頼しました。Aという会社の業態は、エバーよりもこなせる施工数が多く、その分個々の家づくりのアベレージを平均化し手離れをよくすること顧客のメリットとなり、できるだけ一戸あたりを安くするという努力をされている会社です。個性的とまでいかなくとも、リーズナブルで快適な家を求めていたヤマダさんに向いた建築会社だとします。ヤマダさんはそれで満足していました。A社もそんなヤマダさんのためにできる限りのベストを尽くします。リビングをもう少し広くすること、外観をもっとナチュラルにすること、パントリーを追加すること、そういったヤマダさんの要望をきちんと取り入れながら上手く進んでいきました。

物事が進んで来た時に、ヤマダさんにはまた別の欲が出てきました。それを叶えたいと申し出たところ、「申し訳ないですがそれはウチでは対応できません」という答えでした。そのヤマダさんの申し出に、その建築会社の「できる限り」を越えていた部分があったからです。A社は前述したように、個々の家づくりのアベレージを平均化し手離れをよくすることでうまく回っている会社です。そのことには長けていますが、ヤマダさんの申し出はほんの少しですが、改良する知恵や通常の人員配置に、社内的に対応できる範囲を越えた想定外の手間が発生するものでした。A社のスタイルとしての、また人的なフレキシビリティーにおいての、また知恵を絞るという習慣においての、一定範囲を越えてしまったのです。そのことでA社が間違っているわけではありません、それがA社のスタイルでもあり、ヤマダさんはそんなA社に自宅を依頼したのですから、そうなってしまったことはどちらも悪くありません。そういった、時間の経過で依頼する側の立ち位置と作る側の立ち位置とがずれてしまうことは、よくあることです。

例に出したA社とは異なるスタンスでエバーのような会社があります。家づくりにおける手法は画一的ではありません。然るに当たり前ですがコストもまちまちです。お施主様から想定外のご要望をいただくことは本当によくあることです。それらが経験として身に染みついているので、多少のことなら前例に遡れば簡単に解決できたりもします。手間や知恵を絞ることには当然の対価がかかりますが、多少の工夫なら以前にもやっていることなので他社ほど訳なくできる、というケースもあります。

家を建てる時に何を大切にするか、その比重は千差万別です。その中で「個性」という比重はどれくらいを占めているのか?その点で選ぶべき相手が決まってくるような気がします。A社か、B社か、それともC社か?はたまたエバーか?

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エバーのことを自慢します。

2017年3月

かつて東京で長たる仕事をしていた人は、久方ぶりの表舞台で結局のところ大柄でした。「ああやっぱりそういう人だったんだ」と感じてしまった人は多いと思います。本来ああいった人ほど一般人以上に周囲に良識的である必要があると思うのです。しかしながらそうはできない人々、身近にもけっこうたくさん。そういった方々は「なんだ文句あんのかオメーラ」みたいな態度や物言いが美的だと感じる傾向があります。私はまったくそこに美学を感じません。自らに厳しく、周囲に対しての尊敬や思いやりを忘れない人の方が人間として遥かに惹かれます。前者のような「変わらない人」より、私が愛する「成長していっている人」が好きだし、私もそうなりたいと思っています。

家をつくっていく上で、私の嫌いな感覚というものがあります。それは「この件は○○が責任をもってやっていることだから、私は知らない」という観点です。それがプライドの問題であろうが、自身の専門領域をこえた範疇であろうが、その他にどういう全うそうな理由があろうが、私はこの感覚が大嫌いです。大きな組織に慣れてそう思うことが当たり前のようになってしまう人もいます。だとしてもエバーではダメです。何故か?お施主様はエバーの個人個人に家づくりを依頼しているわけではなく、エバーという会社に家づくりを依頼しているからです。エバーの誰が何をやるかが問題なのではなく、全てはエバーという会社がやっていることだからです。しかしながら、人はよくこういうことを思ってしまいます。場合によっては罪のなすりつけ合いすらしてしまいます。どうしてそうなってしまうのか?それは皆がバラバラの仕事をしているのと共に、バラバラの責任感覚をもっているからです。私たちは専門家の集団なので、当然ながら仕事はバラバラですが、責任感覚はバラバラであってはいけないのです。皆が一つのものに向かって進んでいくという感覚が必要なのです。でないと、お施主様にトンチンカンな責任逃れをしてしまうことになります。

幸いなことに、今のエバースタッフは非常に優秀です。とくに数年前にメンバーとなったスタッフの今の状況というのが素晴らしいと思っています。彼らは今、本当によくスタッフ間でコミュニケーションを取っています。建築だとか、設計だとか、コーディネートだとか、そういう職域の垣根は取っ払って、いい家をつくるために必要になる相互理解に励んでいます。社長である私が傍らで感じているくらいなので、彼らは常日頃から本当によく話し合っているのだと思います。そのことで何が起きるか?そう、「この件は○○○が責任をもってやっていることだから、私は知らない」だなんて誰も思わなくなるのです。

それって、誰かに教わるというものでもないんですよね。一人ひとりが考えて、どういう気持ちが必要であるかを発見していくものです。スタッフどうしのリスペクトであったり、思いやりであったりがそうさせていきます。彼らは成長し続けています。

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家をつくることは、人とつながっていくこと。

2017年2月

先日、家づくりをお世話させていただいたお施主様の家にお招きを受け、ご馳走になり、和気あいあいと楽しい時間を過ごしました。考えたら、その家をつくったのはもう4年前でした。つい最近のことのように思っていたのですが、時の流れというのは速いものです。

その方曰く「本当に愛着のもてる家をつくってくれました、感謝にたえません」会う都度におっしゃってくださいます。この上なくうれしい言葉です。その気持ちのしるしとして、いまだに私をほのぼのした家族の宴に混ぜてくださるのです。それだけではありません。その愛着の証拠がしっかりとあるのがうれしいのです。つまり、その家をとても大切に住んでくださっているのです。4年を経てもとても綺麗で、手入れがしっかりなされています。それを見てあらためて感じます。家は、丁寧につくることはもちろん大事であるけれど、それと同様に、丁寧に住み続けることが大切である、と。その方に限らず、エバーのお施主様はそれぞれにこだわりを持って家をつくられます。それだけに、自分たちが知恵を絞って考え建てた家への愛は大きいのだと思います。家ができたら、こんどは自分たちでそれを丁寧に世話し、育てていくのだという気持ちが強いのでしょう。

お招きいただいたのはお兄様なのですが、実はその弟様の家も任されており、つい先日、無事に上棟されました。お兄様を通じて、弟様へと、エバーとの絆が広がって、それはもはやお施主様と業者という関係を超え、温もりのある間柄へと変化して広がっています。

関係性こそ違いはあれ、数多くのお施主様とそういう間柄になっていけるエバーという会社は、ある特殊な性格を持っているのかもしれません。このサイトのお施主様インタビューのコーナーをご覧いただいていない方は、ぜひご一読ください。そこには、その時々のお施主様と担当スタッフとの、ボーダーレスで温かな協力姿勢を垣間見ることができます。「願いをかなえる」ことに一生懸命であることが、エバーの社風です。「No」から入らないことは延々と受け継がれています。

もうすぐ、私が忌み嫌うゾロ目の22期から脱しようとしています。そして23期への夢は広がっています。

その一つをお知らせしようと思います。「分譲らしくない分譲」とでも言いましょうか。エバーは注文住宅をつくる会社です。お客様の求めるさまざまなスタイルをかなえてきました。そのノウハウを生かし、どの家も同じような分譲ではない、それぞれが異なるコンセプトやカラーを持った多様エリアの創造です。一つ一つの家は、アクロバティックなことをやるつもりはありません。しかし、だからといって万人に愛されるためのスペックは必要ないと思っています。その家を気に入ってくれた人が100人の中にたった1人でも「いればいい」。そして購入してくださればいい、と思っています。ゆえに、複数棟の建設に、スタッフ全員がしのぎを削ることになります。想像しただけでワクワクします。そしてそこから、未来のお施主様との絆が誕生していくわけです。

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誰かが破ると、それは台無しになる。

2017年1月

前に立つお年寄りに気持ちよく席を譲る人を見ました。とても簡潔な仕草で「どうぞ」と立ち上がり、その場からスマートに立ち去って行きました。譲られたお年寄りも感謝の気持ちをひきずることがなく、素直にその行為を受け入れて安心して座っていました。終始流れるような気持ちよさでした。それを見ていた私は「上手い」と思いました。見習うべきだと感じました。最近は難しいですね。席を譲ろうとしても、譲った後に自分がどう思われるかを想像してしまったりします。えばるつもりなどなくても、「えばってやがる」なんて思う人が周囲にいるかもしれない、なんて気にして居心地が悪くなったりして。いいことをしているのに、です(笑)。マナーがある、ということと、マナーを心地よく運用する、ということは、ハイクラスのセンスが必要になっています。それがうまくいくと、社会はとても気持ちが良いです。

一方、この正月、ネット上で「初詣ベビーカー論争」なるものが巻き起こりました。ことの発端は都内の有名なある寺が、ベビーカーによる参拝利用を自粛してもらうよう張り紙をしたことがきっかけです。これが広まるやいなやネット上では、「ベビーカーが社会の迷惑だと決めつけている」と騒ぎ、「だったら障害者も高齢者も全部遠慮しろ言っているようなものだ」と非難の声が溢れて炎上しました。実はその寺がこの張り紙をしたのには理由がありました。世の中には厚顔無恥というかどうしようもない人間がいるもので、混んでいる一般の参拝道を横目に、それに優先されるベビーカーの通路を、小学生にもなったような子供をいけしゃあしゃあとベビーカーに乗せて先を急ぐ無神経な者が出現するようになり、それでさすがに寺も見るに見かねて張り紙をしたらしいのです。彼らはなぜそんなことをしたのか?それは、ただ先を急ぎたいだけです。本当に馬鹿です。そういう人間が居たばっかりに、ベビーカー全体が悪人視されてしまいました。さてそんな寺側の憤慨は置いておいて、ネット上では論争が始まりました。「小さな子供がいる家族は初詣に行く権利がないのか?」という主張に対し「なぜ三が日のような混雑するような日に大きなベビーカーを引っ提げてやって来る必要があるの?第一そこに乗せられる子供の立ち場にしてみれば相当な恐怖でしょ?空いてからのんびり行けばいいんじゃないの?」と片や反発する側が出現し、議論は混乱しました。

社会の寛容さにつけ上がって自分勝手に振る舞う人間が現れると、マナーを守ることの根底が崩されてしまいます。そして、双方のかねてからの不満が根底にあると気づきます。つまりベビーカーのユーザーにとっては、周囲のベビーカーに対する寛容さの欠如(ベビーカーの迷惑性は理解して自分なりにマナーは守っているつもりなのに、なぜ周囲はもっと寛容に思ってくれないんだろう…という不満)。逆に、ベビーカーを取り巻く周囲の人々にとっては、ベビーカーが常に優遇されるようなファストパス的な位置付けへの疑問があります(ベビーカーの存在は問題ないが、それにあぐらをかいたことで現れてしまう甘えや、非常識な人間の非常識な行いが目に余る…という)。どちらの立ち場の気持ちも理解できてしまいますが、しかしお互いがそれを言い始めたら、マナーというものはどんどん不快なものへと向かってしまいます。

誰かがネット上で呟いていました。「神も仏もないな。何でそこでベビーカー排除になるんだろ。“混雑しているので、皆さん道を譲り合ってお参りください”じゃ駄目だったのか?」うん、私もそう思います。その通りなんです。しかし、ごく一部の人間がその心地よいマナーの空気を破壊してしまった。私有地を開放している寺は、相当に心を痛めたのではないか?と私は思います。傍若無人な態度が事故でも起こしたら、それも寺の責任にもなりかねません。「寺がなぜこれを書かなければならなかったのか?」その思いは複雑だったのではと察します。

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