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President,s Column | エバー代表のコラム

President's Column | エバーグリーンホーム代表・猪狩裕一の思いをお伝えします。

年別アーカイブ:2018年

2年前も、4年前も、なぜかそうでした。

2018年10月

鎌倉市内で現在建築中の邸の、その傾斜の下にあるお宅の屋根が吹っ飛んでしまいました。先日の台風で、です。決して軽い部材ではありません。それが恐ろしいことに風に舞い上がって、上に立つ建築中の邸の外壁にぶつかったり、破片が四方八方に飛び散ったりしました。幸い、当たって怪我をした人はいなかったようですが、周囲の家屋に被害を与えてしまったようです。私たちは震災から多くのことを学んで、それを実践することに勤しんでいますが、迫りくる天災は地震だけではないのだと身をもって感じた次第です。とくに異常気象が頻発するであろうこの先。雨や風が今まで以上に脅威になってきます。家をつくる立場として、そのことを痛感する出来事でした。

100%安全な人生がないのと同じように、100%安全な家というものはおそらくありません。しかしそれを万全に近づける努力をするのが私たちです。目をそらさずにしっかり向き合い、時代ごとの課題にどう取り組むかが大切です。

課題、ということで別の話題へ。私自身の課題というものは、どうやら2年周期で巡ってくるようです。それは大きく言ってしまえば、エバーを初心に帰すこと。基本に立ち返るという作業です。

車もそうですが、乗っていれば自然と調子が落ちます。定期的にオイルを交換することが必要です。潤滑油が機能しなくなれば走りだってわるくなる。エバーも同じで、なぜか2年周期くらいのタイミングで、潤滑、つまり、コミュニケーションとか心配りとか能率とか、そういったことの滑りがわるくなるようなのです。おかしいぞ、と思う時が一定周期で訪れてきて、それを修理するのが、やはりというか毎回私になります。そろそろ解放されないものか、と思うのですが。

お世辞抜きに有能なスタッフが集まっているエバーですが、それでも少しぶれる時があり、それがオイル交換の兆しです。お施主様を上手にコントロールできずにジレンマを与えてしまうことが良くありません。もっと知恵を使い、お施主様の気持ちを思い、迅速に臨機応変に対処すようという気持ちがあれば解消できたことが目についてくるのです。どこかで誰かの気持ちにある「逃げ」を見つけた時に、「それは違うよ」とさとして再考させる手助けをすること、そうすることが全体の潤滑を取り戻す私の作業になっています。

オリンピック、ワールドカップ、そういった大きなイベントってだいたい4年周期です。2年で基礎をつくって、次の2年で仕上げていく、そんなことの繰り返しなのかと思うと、エバーの2年周期というのも何か意味があるのかもしれません。2とか、2×2とか、そういうのって人間が本来持っている成長の尺度なのでしょうか。くわしい方がいたら話を聞いてみたい気分です。

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良い空気が流れ始めたら、それを利用しない手はない。

2018年9月

メディアはただ受け入れるものではなく、利用するものであると最近よく感じています。体操の18歳の選手が協会を告発しました。よくもまあこうスポーツ界の「協会」にまつわる黒い騒動というのが続いていますが、今度は体操界です。誰もが口を閉じていたタブーがあって、納得のいかない既得権があって、どうしようもないと誰もが見て見ぬ振りをしていたところへ、彼女が一石を投じました。「メディアを利用すればいいんだ」という発想です。メディアはただ受け入れるものではなく、利用するものであることを感じたのだと思います。

メディアとは、ある情報が送り手から受け手に届くまでに間を経由する装置のようなものです。そう考えると、新聞やテレビといったマスコミだけがメディアなわけではありません。風評被害などは噂話が風のように流れてくるものです。その時はどこからともなく吹いてくる風が装置です。雰囲気がいい、わるい、などと言います。「なんかこの空間は雰囲気がいいね」などと日常で聞かれます。ただよってくる雰囲気、これもひとつの装置であり、誰かが何かを伝えようという思惑をもつメディアなのでしょう。

そんな風に考えると、私たちが働く中にもメディアは多数存在しています。スタッフを経由する書類というのもメディアだし、誰かの話を伝え聞くことにも人というメディアが介在しているし、何だかいい空気が流れている時には人を含めて空間全体がメディアとして良い情報を流しているのでしょう。会社の雰囲気がよい時は、そこに質の良いメディが漂っているのでしょう。

ところで、エバーの関連会社の業績が見違えるように伸びています。何か特別な企業改革をしたわけではないのですが、スタッフのモチベーションが上がったり、活気だつようになりました。それはきっと日々の積み重ねを怠らないようにしたからだと思います。みんなが気持ちよく働けるようにするにはどうしたらよいか?そんなことをスタッフの一人ひとりがあらためて実行に移すようになったからだと思います。そうすることで社内のムードがとてもよくなったのです。やっていることは特別なことではないかもしれません。汚れたところを見つけたらさっと掃除をするとか、植物に水をあげるのを忘れないようにするとか、他のスタッフが困ったら「どうしたの?」と声をかけるとか、そういったことです。ごく当たり前のことですが、皆がそうした意識を自発的に持つようになると、そこで共有されるのは、良い空気、です。空気や雰囲気という質の良いメディアを共有しているわけです。そして「質の良いメディアが発信されるようになったのだから、それを利用しない手はない」と、皆が思っているからなのでしょう。これもメディアの利用方法なのではないか、と思います。

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得意なこと、苦手なこと。向いてること、向かないこと。

2018年8月

医科大の大学入試で男女差別が発覚しました。試験の点数に関係なく女性の合格者数を限定して、一定数以上の女性合格資格者の資格を裏ではく奪していたものです。ニュースを読んで憤りを感じました。多くの有識者やコメンテイターは声を揃えて非難していました。先進国にあるまじき悪辣な男女差別である、と。まったくその通りだと思います。

そんな中、コメントを求められた西川某女医が言っていました。「皆さんびっくりしてますけどそんなの昔からやっています。どこだってやっています」と。

続けてこう言いました。「女の子の方がお勉強するんだから普通女子は男子より合格できますよ。だけどその通りに医者が女子ばっかりになったら困るでしょ?女医に整形外科はたいてい無理でしょ?末期患者がいて自分は産休するとかたいてい無理でしょ?」その言葉はリアルでした。

子供の頃から、女子は男子より勉強します。私の頃も思い出せばクラスで女子の方が勉強していたし、成績がよかったです。女子はみんな真面目でした。それは社会で男子の方が女子より有利だから、という常識が働いていたからだと思います。将来に少しでも社会で男子に打ち勝つために、そうでなくとも少なくとも肩を並べるために、女子は小さな頃からしっかり勉強をしなければならなかったのです。中学でも、高校でも、授業でしっかりノートを取っていたのは女子でした。どこかで聞いたことがあります。医者をめざす子供たちの予備校では、講師が「女子は男子と同じ点数では受からないんだから、もっと勉強をして男より良い点を取れ」と露骨に言うそうです。そんな女子が本気で医者になろうと決意して、さらに勉強に磨きをかけて入試に挑むのが医科大の入学試験です。割合として女子合格者の比率が高くなるのは道理です。しかし社会の中で女性ばかりを医者にできない現実があります。女性の適正として職業に向かない科目があるのが明白だからです。

できる女性を入学させなかったことは男女差別ですが、それをそうさせた、その原因をつくった現実社会の課題というものは、男女差別ではないと私は思います。男女に差があること・イコール・男女差別、と簡単に結論づけるのは、何の解決にもならないと思うのです。裏で入学者を操作するような卑劣なことをする前に、現実に即した対策があれば、こういった女性を蔑視した結末にならなかったのではないだろうかと思います。

体力的や性質的に女性に向いた科目というのは女性がどんどん入学できるようにすればいいし、現に多くの女性医師が活躍しているでしょう。しかしそうではない、適性として女性に向かない科目(たとえば強い力を必要とする外科関連など)については、女性でも活躍できる制度や設備を一刻もはやく整備するような意思を明確にする、とか。あるいは、なぜこの科目は女性合格枠が少ないのかを誠実に説明し実行する、とか。差別ではなく適性の振り分けであることを理解してもらうための努力をするべきです。私は医者ではないのでそんな程度しか浮かびません。しかし「これは差別ではなく、男女の適正やメリットを平等な観点でとらえた制度である」と自信をもって言えるような説明方法がきっとあると思います。そっち方向の努力をしないことには、また「裏でこっそり」みたいなことが起きてしまうのではないでしょうか。

男には社会でできないことがあります。それと同じく女性にも社会でできないことがあるのだと思います。できないことがある、という点でも男女は平等です。そのできるできないの境界線をなくすことは今も将来も非常に大事なことです。しかしその格好の策というのは、現実を直視しないと生み出されません。西川某女医という当の女性が繰り出したリアル過ぎる発言だっただけに、ほかのどんな男性医師が言うより納得させられました。

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現場の皆様、自愛を。

2018年7月

サッカーのワールドカップが大詰めにさしかかってきました。日本は予想外の大健闘で盛り上がることができてよかったですね。サッカー通の方はよく、日本のサッカーはスピードがある、と仰います。しかし、ワールドカップに出てくる海外の代表選手、笑っちゃうほど速いじゃないですか。テレビの前で「エエッ!?」と声を上げて驚いてしまいます。本当に日本のサッカーはスピードがあるのかなあ?などと思ったりもします。しかし上には上がいる。それくらいサッカーの世界一流の壁というのは高いものなのでしょうね。

そして国内はあっけなく梅雨が明けました。台風がやってきていて、本格的な夏というのはまだですが、湿気も含めて真夏の兆しが感じられるこの頃です。私たちの業界は、夏に気をつけるべき点があります。熱射病です。

よく炎天下はこわいと言います。もちろんです。直射日光にさらされる現場は注意をしなければなりません。しかしもっと恐ろしいのは、実は炎天下ではありません。建物の中で作業をする者たちです。

たとえば炎天下であれば、日差しの強さを気にしつつ、日陰で休んだり、水分を適度に取って休憩したり、そういったいたわりを自然にします。万一、暑さに負けて倒れたとしても、外を歩いている人に見つけられたりして最悪の状態を免れることができます。ところが建物の中で黙々と作業をする者たちは、直射日光のようなわかりやすい敵を感じないまま、温度と湿度が時間を経るにつれて上がってゆく屋内で、黙々と集中して働きます。仲間がいていたわりあい、相手の健康状態を把握しながら作業ができればいいですが、職人はだいたいが単独で黙々と作業を行います。慣れているから大丈夫だ、と自信がありつつも、彼は延々と密閉された蒸し暑い空間に居続けます。それは言わばサウナの中で何時間も体を動かし続けるようなものです。突然意識を失います。しかし発見できる人間は周囲にいません。倒れてそのまま見つけられることがなく日付が変わってしまうこともあるかもしれません。そうなると大げさでなく、死に直結します。

現場の職人は大方が自営です。彼に何かあった時に十分なフォローが準備できているかが心配になります。それは本人のみならず、ご家族にとっての大問題にもなります。しかし、そんなことより何より、エバーのスタッフである以上、仲間としてそんなことになって欲しくありません。

先日、エバーの今年のメイントピックである「御成エバー」が竣工しました。多くの関係者やスタッフ、職人の皆様方のおかげです。そして次は新たなプロジェクト「江の島エバー」で多くの職人方のお世話になります。健康管理を怠ることなく、自愛と共に仕事に励まれることを願います。

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悪しき風潮、それを当事者は「伝統」という。

2018年6月

大学体育会の陰険な体質というのが浮き彫りにされています。どうしてこう、この体育会気質というのは最近とくによく問題を起こすのでしょう?おかげで、そのことで私も高校時代を振り返り、当時の体育会気質の教師たちのダークな部分を思い起こしたりしました。私の出身高校でも、その気質というのがよくありました。

身体検査で胸囲を測る時、上半身裸の高校生の私に、その体育会系列の教師はしばらく何一つしようとしませんでした。「どうして何もしないんだろう」と思っていた私は、ようやく気がついて言いました。「よろしくお願いします!」それでようやく教師は私の胸にメジャーを巻きました。そして、測り終わって、今度はメジャーを外そうとしません。高校生の私はまた「?」と思い、気づいて言いました。「ありがとうございました!」ようやくメジャーは外されました。

今度は別の教師の話です。授業に15分遅れ、ばつがわるそうにして私は教室に入りました。そのことでその教師は授業を中断し、しばらくの時間教室には沈黙が続きました。沈黙が続き、やがて教室からくすくすと笑いが漏れるようになりました。なぜ授業が中断されているのか、この奇妙な沈黙がずっと続いているのかは、クラスメイトは皆知っています。「ああ猪狩の奴やられてるよ」くすくすくすくす。それでも授業は再開されず、教師は微動だにしません。「いい加減にしろよ」という気持ちを押し殺して、私は「遅刻して申し訳ありませんでした」と教師に詫びました。教師は私を一瞥して、何事もなかったかのように授業は再開されました。

そうです、その体育会系列の教師は、礼儀を重んじそれを是とする人ではあるのかもしれませんが、性格はとにかく陰険、陰湿なんですよ。相手はたかが高校生です、それなのに「最初と最後に挨拶をするのがルールだよ」と諭すこともせず、遅刻者に「どうして遅れたのか理由を言え」などと問いもせずにただただ相手が謝罪の口を開くまで沈黙し、笑い者に仕立てるわけです。徹底的にターゲットを晒しものにし、絶対服従の感覚を植え付ける、そういうやり方というのが彼らの教育方針のようなものでした。

ある時、私はやり玉にあげられ、例によって陰険な手法をとる教師の怒りを買いました。そして、その時に教師に向かって「くだらねえ」と呟いてしまったことがあります。それから先の私の高校生活は、まさにその教師の標的でした(笑)。

退路を断たれ、追い込む。そう、今ニュースで浮き彫りになっている大学体育会の在り方って、本当に昔から変わらない、同じやり方です。スポーツを軸にしているので、ある種外部とは異なる性格の社会なので、手法は上の世代から下の世代へと受け継がれていきます。違法タックルをした彼の記者会見を聞いていて、退路を断たれ追い込まれていたことが非常によく伝わってきました。彼を弁護するわけではありませんが、彼はもう、ああするしかなかったんだと思います。そして、それをやらせた側は「奴を強くしようと思ってやっていた」と言います。しかし、やっていることは陰険、陰湿なんです。ひょっとしたらそれをやり続けた側は未だに「俺のどこが悪いんだ」などと思っているのかもしれません。否、おそらくそうでしょう。

今やってはいけない事の数々が、外部から指摘されることなく当たり前のように連綿と続いている。やり方が陰湿かどうか、気がついたら誰もが無神経になっている。立て続けに問題が発覚するのは当然です。

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御成エバー。

2018年5月

疑心暗鬼になることが、不調ではなく好調な時によくあります。好調なように見えて実は下り坂なのではないか?と不安に思えてしまいます。そんな時、今のまま本当にいいのか?、と疑います。そう思っていると、本当はこのままでは良くないのでは?…と思える事柄が、あれもこれもと増してきます。これがまさに私の性格なのでしょう。

エバーのスタッフは優秀なので、私は数多くのことをスタッフに任せています。若い感性は若い人の特権だと思っているので、私はなるべく管理監督にまわるようにしています。もちろん社長ですから、任せたとしても責任は私がとるつもりでいます。その上で、スタッフには任せられることで生まれる財産を個々がつくっていって欲しいと思っています。しかしその哲学ですら揺らいでいるような感覚があります。私にそう思わせてしまっている大きな原因が明らかに一つあります。

この夏、鎌倉にエバーグリーンホームの表札が立ち上がります。御成商店街の通り沿いに建つ、エバーグリーンホーム鎌倉御成ビル、通称“御成エバー”です。地元の方には「お酒好きのオアシスである高崎屋本店さんのはす向かい」と言えばわかりやすいでしょうか。完成に向けて現在、ご入居契約者様を募集しています(お問い合わせはエバーグリーンホームまで)。

そのために私は鎌倉に足繁く通っています。訪れるたびに、私のホームグラウンドである茅ヶ崎とは違うと感じます。鎌倉はエリアによって住民性がバラエティに富んでいますが、とくに御成とその周辺の地域というのは、そんな鎌倉の中でも抜きんでてセレブリティ感があります。古くからこちら側に紀伊国屋があるのは、だからなのでしょう。茅ヶ崎がわるいと言っているのでなく、しかし、鎌倉は周囲の湘南とは違うなあ、と、湘南生まれ湘南育ちでありながらもあらためて実感させられています。単にそれは観光都市かそうでないかの違いというものではないと思います。鎌倉はやはり湘南のほかのどの街にもない高度なブランド力が育まれた街です。

そこで私には今、疑心暗鬼が襲っています。鎌倉に拠点を構えようとしている今この時に、この街に向かってどうアプローチしていけばよいのか、悩んでいます。スタッフの持ち味である「若くて大胆な感性」にこの街を託すというのは、ちょっと違うぞ…と感じているのです。むしろ経験値に優れ、オーセンティックな感覚に回帰した感性の方が、この鎌倉という街には必要に思えるからです。いっそ簡単に言うなら、鎌倉は若さで突破できるほど生易しくはないということです。

御成商店街のもつ親しみやすさと洗練の中、その景観や雰囲気を大切に守りながら、御成エバーがもうすぐ姿をあらわします。地域のために役に立つ施設として在り続けることに努めたいと思っています。

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勝手したいのなら中途半端な強者になるべからず。

2018年4月

パワーハラスメントについて。狭い世界で生きていることの怖さというものを、最近よく感じます。相手の気持ちを考えずに言いたいことを言い放ってしまう傲慢さ。それが通じない時に起こす子供のような癇癪。まさに子供だと、見ていて思います。どうしてそうなってしまったのか。それは、その人がイエスマンに囲まれてしまっているからです。お山の大将だから、日常の中で誰も彼を止めることはなく、むしろ正しかろうが誤っていようが「さすがうちの大将だ。その通り。」と周囲が持ち上げ続けます。

どうしてそうなってしまうのか。それはお山の大将が取り巻きにとって「強い存在」であり、取り巻きはお山の大将に守ってもらわなければ生きていけない「弱い存在」という構図になっているからです。取り巻きは他者にやりこめられたら大将に泣きつきます。「それは黙っちゃいられねえ!」とばかりに大将は復讐に向かいます。「これからも困ったことがあったら俺が助けてやるからな!」「さすがうちの大将だ!」。この主従関係があれば生きていける世界が、たくさんあります。

そこには欠けているものがあります。非常に大切なものが欠けています。それは、外部、です。外部が欠落した世界。だから異常なのです。

最近のニュースはパワハラだらけですね。権力による嫌がらせです。しかし、パワハラをされる側はそれを痛いほど感じているのに、パワハラを仕掛ける側というのは、ほとんどがその意識を持っていないらしいです。なるほどそういうことか、と思いました。つまり、パワハラをする強者はたいてい自分の「お山」を持っているのです。強者にとっては「お山」という自分の居場所が世界の全てです。外部なんて関係ありません。だから、その「お山」の掟に反する者が現れたら、攻撃をします。それが権力による嫌がらせです。それをしたから周囲がどう思うのか、なんて、考える必要はないのです。お山の中に大将に逆らう者なんていない(はず)ですから。狭い世界のゆがんだ秩序は、この繰り返しで膨張していきます。「外の奴らの言うことなんか気にするな。俺の言うことだけ聞いていればいいんだからな」繰り返しますが、これが外部が欠落した結果です。

一方的な意見では、パワハラは、する方が100%悪い、と言います。しかし元をたどれば、お山の住人のひとりひとりも悪いのです。都合のいい時だけ助けを求めて、その代わりに権力者の横暴に目をつむってきた住人が、正しい行いをしてきたとは思えません。

お山の大将は、一刻も早く外部を意識しなければなりませんでした。さもなければ、どんな外部との温度差にも屈しない、「最強」になるべきでした。最強なら、意見の違いなどもろともしませんからね。中途半端に強いのなら、お山の大将は、勝手をしてはいけないのでした。いつか他者に叩かれて、簡単に謝罪するくらいの強さだったのだから。

今、お山に住んでいる感覚がお有りの方がいらっしゃると思います。そのお山、居心地がいいのかもしれませんが、ご自身がどんどん浮世離れしていくことに注意された方がいいと思います。これはおかしい!とばかりに強者に対して反旗を翻すなんて、しない方がいいです。そんなことをしたってお山の掟は変わりません。ただお山から脱出する。することはそれだけです。

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口約束という堅い信頼。

2018年3月

失敗しないように策を打つことは大切です。無防備や無鉄砲は愚かなことです。思い切りや直感も時には大切ですが、それだけで上手くいくはずはありません。しかし、肝心のリスク回避も、限度というものがあります。何事もやり過ぎは良くありません。

今の世の中は、考えうる限りの全ての想定に対処するために書面化することが良しとされています。すると自然に約束事というのは膨れ上がっていきます。書面に記されているかいないかで責任を問えるのか問えないのかが分かれます。だから思いつくことはどんなことでも約束事として書き表していかない。さて、するとどうなっていくか?そう、書面づくりに追われます。本業より書面づくりに日々を費やさなければならないこともある、それが大きな弊害です。

エバーという会社の場合、それはとくに問題です。なんせ画一的な家づくりをしていないのですから、書面づくりは、極端なことを言えば、お施主様の数だけ異なるものを作成しなければならなくなってしまいます。一つの家には本当にたくさんの資材や設備やアイデアが詰まっていて、それが一邸一邸で違うのだから、個別に起りそうな想定を考えていくとなれば、それはもうキリのない作業です。考えただけで蟻地獄です。

私が今まで大事にしてきて、これからもなおいっそう大事にしていきたいと心がけていることがあります。それは「口約束」です。

口約束と言うと、ネガティブに受取られることもあります。言った言わないの元になる、とか。しかし、良い側面が悪い側面を凌駕するとも思っています。最大限の常識を両者で共有すれば、もうそれでいいのではないだろうか?と。我が国には憲法があり、その下に民法やら商法やらがあり、さらにその下に条例とかモラルがあります。ありとあらゆる事象を想定した分厚い書面というのは、大根幹である憲法だけでなく考えうる限りの細かな条例やモラルまでをも書き連ねたような、分厚い法律書のようなものです。不特定多数が買う製品に付ける約款ならともかく、私たちはお施主様の人となりも把握できる密接な関係を築くことができます。さまざまなことは口約束で同意できるし、それは約款以上に効力があると思います。つまり「お互いが話し合って理解し合う、それ以上の決まりごとはない」と私は思っています。まさかあるわけないけれど、ないとも限らない、そんな事象を事細かに書面にして同意し合わなければならない不審な人間関係が前提ではなく、顔を突き合わせて信頼を醸成させていった先の、血の通った口約束です。もちろん書面は書面で必要です。しかしそれは根底として共有する憲法のような性格のものがあれば、個々の事象はそれに照らし合わせて考えればいいだけなのではないか、と思います。

互いに信頼があっての口約束です。お施主様との信頼を醸成していくことは、おせっかいな約款づくりをするための膨大な時間を、それだけ家づくりに専念させてくれます。

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お金は働いて稼ぐもの。

2018年2月

目に見えるものしか信じられない性分です。なおかつ、ふってわいたような儲け話に飛びつく性格でもない。そんな私にとって、ちんぷんかんぷんなものが、いま話題のビットコインです。10万円が240万円になったー!なんていう話も耳にします。

先日ニュース番組で、ビットコインの説明をしている人がいました。「冷蔵庫に例えますと、冷蔵庫は買いますよね?20万円のものを買って、20年間使うとします。すると一日あたり約25円です。これは使う使わないを別として、20年間毎日25円を払うということです。で、ビットコインはですね、使う時だけ冷蔵庫が使えるという発想です。20年間で一日だけ使うとして、25円だけ払えばいいという発想です。そうすると、冷蔵庫の需要が飛躍的に進化します。いちどに20万円を使わなくて済むということですから。」…なんのことやら、なんとなくわかったようで、でもさっぱりわからないようで。

それはどうやら、世の中のお金を活発に動かすために、ビットコインというものはとても有効であるということのようです。皆様、タンス預金を多かれ少なかれされていることと存じます。その総額は、日本人の場合、100兆円とか200兆円とか言われています。そういった動かないお金を活発化するために、仮想通貨の存在は非常に有益だということのようです。経済的な観点ではできるだけ多くのお金が動いた方が社会は潤っていきます。そういう意味で、仮想通貨は救世主になるのだ、と。そういうものなんですね。

今は儲け話としてめっきり話題になっている仮想通貨ですが、その本来の意義というのは、経済を活性化させるための起爆剤として考えた方が正しいのですね。そういうことをきちんと説明してくれるメディアがあまりなく、どちらかといえば浮いた話とか沈んだ話とか、そんなことばかりが先行しているので、誤解も増えるのでしょう。

経済を活性化は興味があります。しかし得した、儲かったみたいな話は他人事です。ゲーム感覚みたいな楽しさはあるのかもしれませんが、そんな暇があったら私は仕事をがんばります。だって、一生懸命働いて稼いだ方が、楽しいに決まっていますから。お金は働いて稼ぐもの。それがいちばん楽しいのです。

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全てのモノ、それを使ったのはヒトである。

2018年1月

マテリアルに責任を転嫁しない、というのがエバーグリーンホームの信条です。

どうしてそういうことを申し上げるかというと、「うちの家はどこそこの部分に○○社の製品を使っているから信頼できます」というセールストークや広告トークがいかに多いかを痛感しているからです。これは何も我々の業界に限ったことでなく、すべての業界にあるわけですが。「うちの玩具は世界品質の○○社が監修しているからお子様に安心です」「わが社の傘は○○社の耐久素材を使用しているから壊れません」「当社の自転車に使われているブレーキは全て○○社の製品です」等々。しかし、それらはあくまでもその製品の魅力のオプションのようなものです。玩具にしても傘にしても自転車にしても、一部分に過ぎないのに、まるでそれがその商品の「全て」のように聞こえます。どこかの名の通った製品を借用して何かをつくり、「これがこの商品の全てです!」というのは、はたしてどうなんでしょう。少なくとも家づくりというジャンルにおいては、あまりにも責任を一か所に転嫁させ過ぎている、と私は思います。「○○社の製品を使っているから信頼できます」ではなく「私たちのつくろうとしているこの家に必要なので、私たちはこの○○社の製品を使っています」という、つくり手主体の論法が正しいと思うのです。

日本人の職人魂の劣化というものが囁かれています。マテリアル主体か、つくり手主体か、その論法の違いというのは、職人魂の劣化を助長しているような気がします。作り手の発想がまずあって、それに必要な素材や技術が選ばれていた時代があって、やがてそれがいつしか、優秀な素材や技術の組み合わせ=高品質と呼ばれてしまうような時代になってしまった。それを高品質と呼んでしまうのなら、高品質はマテリアルメーカーだけでできてしまうということになります。

なので、エバーグリーンホームでは、つくった家に対する責任というのはマテリアルのせいにはしません。もしも誤りが起きたとしたら、それはマテリアルの責任ではなく、それを採用した人間の責任です。「うちの家はどこそこの部分に○○社の製品を使っているから信頼できます」みたいなセールストークをする会社とエバーとでは、スタンスが異なります。

先日、新幹線のホームに立っていてあらためて驚きました。新幹線って、10分かそこらの間隔でびゅんびゅん出て行くんですよね。「常識を超えた正確さ」と言われているらしいです。すごいもんですね、日本という国は。職人魂の典型ですが、それがついに劣化しました。台車の大幅な亀裂という大惨事につながるトラブルを瞬間的に保留しました。さらにそれが発覚しても3時間、ダイヤの乱れを気にして対処できませんでした。マテリアルに対する過度の信頼が危機意識を麻痺させてしまったのでしょうか。責任をマテリアルに押し付けるように、騒ぎは闇に葬られようとしています。良きことであれ、悪しきことであれ、マテリアルを採用し管理しているのは人間だということを、忘れてはいけないと思います。

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